2017年7月
いま光りがとどいたのではない 光りに遇わなかっただけだ
吉岡妙子
相撲町・浄願寺の澤面宣了氏が「循環彷徨(じゅんかんほうこう)」という言葉を教えてくださいました。
人が何の目印も無い、広い砂漠のような所で真直ぐに歩くという実験があるのだそうです。
その実験でわかるのは、自分では真直ぐ歩いているつもりでも200mほど進むのに、5mは横にズレて行くのだそうです。
進めば進むほどズレるので、最後は元のところに戻ってくる。
つまり彷徨い循環する、だから循環彷徨というのだそうです。
しかもズレる方向が面白いんですね。
無意識のうちに、必ず利き手の方にズレて行くのだそうです。
右利きなら右に、左利きなら左に、悲しいかな得手にズレる。
得意なこと、正しいと思っていることが、なぜか却って迷いを深めるんですね。
一生懸命頑張って生きて、元のところに戻る。
「一体何やってんやろか、ワシの人生。」
なんて、こんな空しいことはないですよ、とお話くださいました。
みんな幸せになりたいと思って、一生懸命頑張って生きているんです。
でも一生懸命であればあるほど、何かがおかしいと感じると、アレがおかしいコレがおかしいと問題を他者に見出そうとします。
そうやって、自分の思いを中心にして悩むことで、却って肝心のズレている自分には全く気付かないんですね。
気付かないまま「大丈夫や、間違いないはずや」と、大切な人をも道連れに、私の思う正しさに邁進し、結局循環する悲しい生き方をしてしまいます。
その迷いを何とか抜けたいという切なる願いに応えるべく、一筋の光を灯してくださったのが釈尊であり、同じ悩みに立って、その光に出遇い続けてくださったのが親鸞聖人や我々のご先祖など、多くの先達だったのではないでしょうか。
自分の思いを出る事のない私は、必ず得手に、自分の思いにズレて行くのです。
そんな私のために、この目印の無い人生においてナンマンダブツの光が、はるか古(いにしえ)から私にまで教えとして届けられ、生きる方向が指し示し続けられていたのではないでしょうか。
日常の雑事の中で、すぐにその光を隅に追いやり、自分勝手な思いに埋もれて彷徨う私です。
いま共に念仏して聴聞し、繰り返し繰り返し出遇いなおし続けながら、この悲しい循環から解放され続ける道を歩めと呼びかけられているように思います。