2017年12月
聞くことの難しさと大切さ…
人間の愚かさは 何事に対しても 答えを持っているということです
高橋法信
幼い頃から数多くの引越しを経験して来ました。やむを得ない引越しもありましたが、中には自分のやりたい事をする為に引越しをしたことも多かったように思います。
語学しかり、ボクシングしかり。僧侶になろうとしたときもそうでしたね。
引越しをする度に、今まで通りには行かなくても、新たにこの環境で頑張ろうという新鮮な気持ちで一杯でした。
しかし1ヶ月、半年と過ぎ、1年も経つと納得できない事、気に入らない事が出て来ます。
初めのうちは良いも悪いも無く、賜った環境の中でひとつひとつ覚えて、丁寧に考えて行くつもりでいたのにも関わらず、気が付いてみればあらゆる人や物事に対して自分の良し悪しを見定めるようになって行くのです。
「枠は惑に通ずる」とは藤場俊基師の言葉です。
覚えたり丁寧に考えたりする謙虚な気持ちを手放すのと引き換えに、良し悪しの「枠」から外れたものは認める事ができない狭さを掴んでしまいます。
何事にも「こういうもんや」と自分の「納得」をもって答えとするあまり、実は世の中にある多くの人や物事と出遇えなくなるという事があります。
人の話が聞けなくなり、自分は痛まないところから人や世間を裁き、物事を是非するようになった時、きっと多くの物事や、人の気持ちを見落としているのでしょう。
己の納得以外を認めないあり方は、人の話のみならず仏法でさえも、自分の納得の上でしか聞こうとしません。
それでもどうにか教えによって枠(惑い・身勝手な答え)を握っている自分自身の狭さを知らされる事で、ようやく聞くことや出遇うことができようになるのだと思います。
気付かされる度に、その傲慢さ故に何とも言えない申し訳なさを感じるのと同時に、この賜った世界が、あらゆる関係性があらためて広く豊かに見えてくるような気がするのは私だけなのでしょうか。