2018年2月
善人になるより悪人と気づくのは難しい
勝見昭造
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」歎異抄の悪人正機は有名な言葉ですね。
悪人ですら往生するんだから善人は当然往生するというならわかりますが、これはその逆です。
私もなんの事やらわけがわかりませんでした。
しかしこの「わけがわからん」のがミソでした。
「わからん」のは、私のいう善悪が私の都合によるから「わからん」のだそうです。
なるほど私の都合による善悪では、自分は常に善人なのです。
確かに悪人だなんて全く思っていないですね。
たとえ何かしてしまっても、言い訳をしてでも自分を正当化します。
しかも仮に認めて反省しても、反省する前よりも反省した私は賢く正しいつもりなのです。
当然「わけがわからん」はずですよね。
実は信仰においても、自分を善人にしたり認められない他者を悪人にするような問題があります。
先輩から教えてもらった、金子大栄講述『正信偈講義』という書物の一節です。
『信仰のある人間は、同じ信仰の人間以外、つまり信仰のない人間を人間でないやうに思ふからであります。同じ信仰を持ってゐる者だけ人間であるやうに思ふ。病気にならうが、災難がおこらうが、死ぬであらうが、信仰のない人を見れば、「あれは信仰がないから」と言ふ。どんな場合にも無信者に対しての敬愛がない。さうして動もすれば無信仰の人間などはどうなつたつていゞんだといふやうな態度をとり勝なのです』
宗教であれ何であれ、私の眼を頼りとしている以上、どこまでも自分の思いの範疇でしかモノを受け止められません。
結局それは強い自我意識であり、妄信と言っても差し支えないほど闇は深くなります。
世界宗教といえども、教えに触れた私自身が狭く苦しい世の中を作るのです。
これは宗教の問題ではなく、触れた人間の問題です。
鬼は外福は内。悪いのは他人で損は嫌い、こんでええねん。何が悪いねんと、気に入らない他者は認められず自己肯定もやまず、何とか損をしたくない私は、よもや自分で自分の世界を狭め、苦悩を生み出しているのだとは気が付きません。
これを無明と言い、苦作る悪人と言うのでしょう。
「無明とは確信の感覚である」とは私の先生のことばです。
確信において人は道を見失うのです。つまり、影を見失う事と光を見失う事は同義です。
教えに照らされ続けるべき身である事を忘れ、真実を掴んだと錯覚すると、自分こそが善であると確信し、聞く耳を失います。それは同時に、非常に深い闇へとはまり込んでいる状態であり、実は一番教え(光)を必要としている姿なのだと思います。