徒爾綴(2026年1月)
2026年1月 徒爾綴
2026/01/01 | 徒爾綴
年頭にあたり、謹んでご挨拶を申しあげます。
旧年中は慶運山長源寺の護持運営、諸行事・諸法要に際しまして、皆さまのお支えを賜り心より御礼申しあげます。
さて、今回の掲示板の言葉は 「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」 という歎異抄にある言葉です。
新しい年を迎えるたび、私たちは「始まり」を意識いたしますが、仏様の教えは同時に、すべてが移り変わり、同じかたちにとどまるものは何一つないという事実を私たちにお示しくださいます。
【諸行無常】――この世にあるものは、形あるものも、思いも、関係も、すべて決して永遠ではありません。
だからこそ、今ここにある全てのご縁は、かけがえのないものとして、私たちの前に立ち現れているのではないでしょうか。
また、私たちはつい「自分は自分」と思いがちですが、仏様の教えはそうした考えを問い返してくださいます。
私が私として歩んでこられたのは、決して私一人の力によるものではなく、多くの方々、そのお支え、出会い、別れ、そうした共なる縁ある方々お一人おひとりがいてくださって、はじめて今の私があります。
「自分は自分」と頑張っていても、事実は【諸法無我】だと教えられます。
私という存在は、固定した実体としてあるのではなく、関係の中で生かされ、関係の中で思い、悩み、力をもらってきたという事実に、あらためて耳を傾けたいと思います。
さらに、私たちの日常を振り返りますと、目先の楽しみや安心を「幸せ」だと思い込み、今ある状況を苦とみなしては、次の楽しみ、次の満足を追い求める生き方に陥りがちです。そして、そのことに疑問を抱くこともないのです。
しかし、ようやく得た「楽」はすぐに当たり前となり、手に入れた「楽しみ」も、やがて飽きてしまい、その場所すらまた苦と感じてしまう。
この終わりなく流転する人生を、仏様は【一切皆苦】と教えてくださいます。
これは人生を悲観する言葉ではなく、苦を出発点にして、楽を楽と感じ続けられずに、さらに苦や不満を見出す私たちの生き方のありようを、深く照らし出す教えだと言えないでしょうか。
騒がしさや不安に翻弄される悲喜こもごもの日々の中にあっても、立ち止まり、教えに耳を傾け、法に照らされて、その都度生き直していく道が、ここに開かれてあるように思います。
身をもって生きている限り、【涅槃寂静】の世界観を体得する事はできないかもしれませんが、宗祖の教えを通して、釈尊のお言葉に耳を傾けることはできるかもしれません。
互いに異なる身をもち、異なる関係性を生きている私たちにとって、仏道は一人ひとりのしのぎです。
だからこそ、どうか本年も本堂に寄り集まって、ただお念仏申し共に歩ませていただきたく存じます。
本年もどうぞよろしくお願い申しあげます。