2012年9月
9月 1st, 2012 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »解決策がわからないのではない。問題がわかっていないのだ。
G・K・チェスタートン(作家・推理作家・批評家)
『どうしたらいいのだろう』こう言う時大抵は『私の思うようにするには』が含まれているのではないでしょうか。
基準が自我(自分中心)なんでしょうね。自我は自分が見えません。自分の思うよう(心地良い状態)にする為に、他者(世間)を利用しようとします。
NPO法人『TEAM二本松』代表の佐々木道範さんはおっしゃいます。
初めのウチは、この怒り(原発事故の問題)をどこにぶつければいいのかと、その矛先を探していましたが、最近はそうではないと気付き始めました。子ども達に『お前のせいじゃないのか。お前にも責任があるんじゃないのか』と言われているような気がしています。
誰か(世間や他人)のせいにして、自分は迷惑を被っている善良な市民。これは私達だれでもが日常繰り返している感覚ではないでしょうか。
そうやって、自分の身に起こった事実までも境界線を引いて善・悪と二分化していきます。そして、必ずと言っていいほど、自分以外が悪です。
最近聞かせていただいた藤場俊基師のお話からも、そのように何にでも境界線を引き、簡単に答えを欲しがり、二極化し自分以外を差別していく私達のあり方をお示しくださったように感じました。
佐々木さんは次のようにもおっしゃいます。
福島の人間にとっては、放射能の無い世界が浄土なんです。とは言え、今のままで原発が無くなっても、別のモノが出てくると思います。学者さんでも、二極化してお互いにあの手この手で自分の意見に都合のいい情報を出しています。私はその狭間に真実があると思っています。また、福島をダシに反原発を叫ぶ人もいます。子どもから鼻血が出たら、撮影させてほしいと言い、奇形児が生まれた噂は無いかと聞きまわるジャーナリストの方も居られる。同じ反原発でも福島の悲惨さを利用されるのです。福島が可哀そうだと思わないでほしい。それは境界線を引いているのです。引いた人は、引かれた人を上から下に見ているのに他ならないのです。同じ目線で考えていただきたい。
瓦礫処理の問題でも、除染されたモノの仮置き場にしても、原発立地と同じ発想なのです。汚れて良い土地などないのです。被ばくしても良い人などいないのです。自分の近くに置きたくないモノを自分から離せば、その分誰かに近くなるのです。
根本的な生き方が問われているような気がしています。今の発想が原発を造り続けてきたのです。今のままでは同じ過ちを繰り返すのです。
この言葉を聞いて心が動かない人はいないのではないでしょうか。しかし日頃、私がなかなかこのような心境(思考)になれないのは、とことん自分中心のモノの見方が染みついているからなのでしょうね。水俣病や足尾銅山鉱毒事件の頃から何も変わっていないと言っている方がおられましたが、本当ですね。
私の所からしか見ようとせず、それでいて分かったつもりになり、私の都合を理解しない他者を悪者にし、同時にその他者との関わりを苦痛に思う。苦痛に思い、距離を置こうとする。または問題を誤魔化そうとする。しかし、また別の関わりで同じような事が起こる、そして、またその事に悩む…苦悩の連鎖です。
もしかしたら、大津のいじめの問題も、教育委員会の問題も、全てはそこから始まっているのではないでしょうか。そしてまた、ニュースを見た私達は『悪い奴だ』と自分の事を棚に上げて、決して耳に心地良くもない言葉をならべる。
清廉潔白で善良な市民であるはずの私達は、一体何をやってるんでしょうね。
親兄弟、子や孫とその生き様を共有できますか?