2025年5月 春季永代経のご案内 / 徒爾綴
浄土へ往生するということは、ここで生きられるようになったということです 竹中智秀
法蔵菩薩は、自らの煩悩によって苦しむ私を憐れみ、浄土に往生させて必ずすくうと誓い、阿弥陀仏となって浄土を建立してくださいました。
その浄土の世界には地獄・餓鬼・畜生のような有様がないと、第一番目に誓われています。
地獄とは孤独の世界です。自己中心の思いによって、誰とも通じ合えずに苦しむあり方をいいます。
また、餓鬼とはどれだけ満たそうとしても満たされず、常に貪り続けて苦しむあり方です。
そして畜生とは、自分中心の思いによって、真理(本当のこと)を見失い、理性を欠き、互いに傷つけあう姿をいいます。
自分ではそれらを無縁だと思いがちですが、実は浄土の教えを聞いていくと、必ず私の現実の問題を言い当てられます。
阿弥陀様は三毒(貪り・怒り・愚かさ)の煩悩に振り回される私たちを「凡夫」と呼びかけ、「その求める方向では苦しみは止まない。お念仏申してほしい。凡夫の身そのままで必ず浄土へむかえとって救う」と、はたらきかけ続けてくださっています。
誰しも、いつかどこかで「どうにかなりたい」と願い、努力や苦労を重ねてきたのでしょう。
ところが、何を得ても心が満たされることはなく、やがて「昔はよかった」と嘆くばかりです。
私たちは、どこへ向かえばいいのかもわからず、彷徨うようにして生きてきたのです。
正信偈に「貪愛瞋憎之雲霧」と示されているように、自分の思い通りになることを貪るように求め、愛するものだけを手元に置きたいと執着し、気に入らないものには瞋りや憎しみを向けてしまう、そんな自らの煩悩が雲霧のように眼前を遮り、私たちは道を見失ってしまうのです。
そのような中で、この竹中智秀先生の「ここで生きられるようになった」というお言葉には、「やっと向かうべき、求めるべき方向を賜った」という深い実感が込められているように思います。
阿弥陀様は我々に、「この娑婆にあって、どうか浄土を欣いながら生きてほしい」と願いをかけ、今まさに「“南無阿弥陀仏”と我が名を称えてほしい」と、はたらいてくださっているのです。そして、先に浄土へ往かれ、諸仏となられた大切なお身内の方々も、またそのお一人です。
まもなく春季永代経法要をお勤めいたします。
お寺とは、ご先祖など様々なご縁に導かれて参詣し、この世間(娑婆)で苦悩する私が、阿弥陀様のお心に足元を照らされつつ、私自身の浄土への道のりを確かめる道場です。
ともにお念仏申して、仏法を聴聞いたしましょう。皆様のご参詣を心よりお待ちしております。
期日 : 5月18日(日)
日程 : 午前の座 9時30分勤行御始 法話2席 / 午後の座 13時00分勤行御始 法話2席
ご法話は 米原市上多良 眞廣寺ご住職 竹中慈祥 師 です。
2025年 同朋学習会のご案内
2025/02/14 | 聞法会
今年も同朋学習会を次の要項で開催いたします。
「仏説無量寿経」について、瓜生崇師(東近江市玄照寺住職)のお話を聞かせていただきます。お住まい、所属寺院や宗派も関係なく、どなたでもご参加いただけます。1回限りでも、連続して聞いていただいても大丈夫な内容です。ぜひご参加ください。
1.期 日 3/14、4/18、5/9、6/6、7/25、8/15、9/19、10/18(土)、11/21、12/12
*10月以外すべて金曜日
2.時 間 19:30〜21:00
3.会 費 年会費6,000円(全10回)または 1回1,000円
※すぐ西隣が「本願寺派」の長源寺さんです。間違えないようにご注意ください。
2025年1月 徒爾綴
2025/01/01 | 徒爾綴
昨年1月1日、未曾有の災害が能登地方を襲いました。
まさか1月1日にとは、誰もが思ったことでしょう。
まだまだ復興が追いついていないようです。
被災された方々にお見舞い申し上げますとともに、ご縁のある皆様におかれましては、息の永い支援のご協力をお願い申しあげます。
さて、今月の言葉は 「遇いがたくして今遇うことを得たり 聞きがたくしてすでに聞くことを得たり」 という教行信証総序にある言葉で、宗祖親鸞聖人が仏法に出遇えた慶びを表現していらっしゃる言葉です。
この時の「遇う」は、人や物事の真意に遇えたことを意味します。また「聞く」は真剣に聴いた先に聞こえてきたことを言い、お聖教の言葉と向き合い続けた先にようやく聞こえてきた慶びを「聞くことを得たり」と記すことで、どちらも自分の想定を超えた出遇いへの感動を表現していらっしゃいます。
私が長源寺に入寺した今から約20年前、お参りに伺った当家の男性から「坊守さんのこと、よう見といたらなあかんで。」と声を掛けられました。お寺で生まれ育っていない坊守の気持ちを案じてくださったのでしょう。私が「わかりました。」と答えた直後、お連れ合いである女性が「ごえんさん。あんた男やろ。女の気持ちはわからんのやで。」と少し微笑みながらおっしゃったことがありました。
このご夫婦のお声かけは『あなたは自分と異なる他者の言葉が聞けているか』と問いかけられたように感じられ、同時にそれは私自身の仏法に対する姿勢を問われたようにも感じられました。
思えば私は、仏法でも誰かの言葉でも「聴聞」などできておらず、「訊く」ということしかできていなかったのかもしれません。この文字には「訊ねる」という意味があるように、相手の言葉の真意よりも、自分が納得できる答えを期待して聞いていただけだったのです。
それは、「わかる」を「分ける」と書くように、複数ある自分が納得できる答えの 枠組に分類して理解したことにして、枠組に収まらなかった言葉は聞き流してしまうような聞き方です。
そんな私は、一番身近にいる家族の言葉であっても、自分が納得できる言葉を探しているに過ぎず、相手の言葉をきちんと受け止めて、気持ちを理解したり聞いたりすることはできていなかったということです。
言葉選びは人それぞれ異なる上に、言葉は心の全てを表現できません。相手の真意がわからなかったり意見が違ったりしても、その言葉を選んだ背景を想像して、根気よく相手の思いが聞こえてくるまで、届けられた言葉に向き合うのです。
真剣に聴くというのは、自分の掴んだ答えの枠組が崩れることで聞こえてくるものを大切にしようとすることをいうのだと思います。その先に、互いに何が見えていて、何が見えていなかったのかに気が付くことがあり、その刹那に相手との間を隔てていた自分の枠組(思い込み)が揺らぎ、互いの世界観が少しだけ融け合うことがあるのだと思います。
それはまるで仏法と向き合い続けるうちに、過去に聞いたはずのお聖教の言葉が全く違う新鮮さをもって迫ってくることに似ているように思います。
2025年も長源寺では法要や法座を通じて、ご縁のある皆様と一緒にお念仏申し、教えに聞いて参りたいと思います。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
2024年11月 報恩講・秋季永代経のご案内 / 徒爾綴
私が頑張って生きているという「妄想」が、
生かされているという「事実」から目を逸らさせる。
先日、知人から「煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」と筆で書いてほしいという依頼がありました。
私の煩悩によって眼を障えられて見えていなくても、阿弥陀さんの大悲は常に私を照らしてくださっているという正信偈のおことばです。
今年は心を痛める事件が多数報道されています。
例えばごく一般的な生活を送っている方が、ある日突然強盗事件の当事者になるのです。報道によると、経済的に困って高収入のアルバイトを探し、履歴書などの個人情報を送付すると、その情報を元に脅され、後には引けなくなるのだそうです。
また、指示役の言う通りに動くことが要求され、そして多くは報酬が渡されることはなく、実行役として加担した方、ターゲットにされた方だけが日常を壊されてしまうのだということでした。
「道徳を忘れた経済は犯罪である、経済を忘れた道徳は寝言である」と聞いたことがあります。
経済というのは生活に欠かせないものであり、とても大切です。
でも、経済は自分が得をすると、必ず誰かが損をする仕組みになっています。
それゆえに道徳心、倫理観がとても大切だと言われるのだと思うのです。
では果たして私たちの道徳心というものの正体は、一体何なのでしょうか。
ここ最近、人と話をしていて何度か「地縁」という言葉を耳にする機会がありました。
地縁によって経済を循環させてきた、地縁によって支えられて、生活が成り立ってきたという方もいらっしゃるでしょう。また逆に、地縁によって辛い思いをして、地縁的関係が嫌で仕方がないという方もいらっしゃるように、地縁をどこに見出すのかは、人それぞれ違うようです。
おそらく20年近く前から「無縁社会」という言葉を聞くようになったと思いますが、この無縁社会の問題は、孤独死、DV、児童虐待、家庭崩壊、貧困などの現代社会の問題の多くを孕んでいます。
実は、これは地縁が崩壊していくことと深く関わっているように感じています。
道徳心は関係性が見えてこそ育まれるものだと思います。
ところが、地縁が崩壊する時には、関係性を見失い、プライバシーを重視し、個人主義化し、「恥」や「お互い様」ということに極端に鈍くなり、自己の利益にのみ注視する傾向が強くなってしまうのだそうです。
しかし、実はこれは「煩悩具足」と言われる私たちが持っている正体でもあるようにも思います。身を「煩」わせ、心を「悩」ませるものが「煩悩」だと教わりますが、煩わせ、悩ませるものを自分の外に見出し、都合の悪い関係性を断とうとするのが私なのです。
実はそんな私の道徳心は、煩悩具足の私を悲しむ阿弥陀さんの光が届いてはいても、煩悩(妄想)に眼を障えられたまま、事実に背を向けてしまうようなお粗末な道徳心なのでしょう。
まもなく報恩講です。阿弥陀さんのお心を共に聴聞いたしましょう。
ご参詣お待ちしています。
◎11月9日(土)
13時30分 逮夜
御俗姓 大阪府堺市 光照寺 日野廣宣師
ご法話 滋賀県東近江市 玄照寺 瓜生 崇師 2席
引き続き
御伝鈔 住職
お勤め
ご法話 滋賀県東近江市 玄照寺 瓜生 崇師 1席
◎11月10日(日)
9時 晨朝兼日中
ご法話 滋賀県東近江市 玄照寺 瓜生 崇師 1席
秋季永代経
13時30分
ご法話 滋賀県東近江市 玄照寺 瓜生 崇師 1席
住職挨拶
以 上
2024年4月 徒爾綴 / 春季永代経のご案内
「学仏大悲心」の「学」とは、
まずそれぞれの物差しを離れて謙虚に受け入れること
いいかえると長年にわたって染込んだ常識をもって、
み教えを理解しようとしないことです。清岡隆文氏
どこでお見かけした言葉かは覚えていませんが、当時とても心に響いたことは覚えています。
理解しようとすることは自然なことかもしれませんが、理解しようと力むと、自分の物差しによる「解釈」に溺れることがあります。
自分が色々知っているという驕りが理解できると思わせるのです。
理解するのではなく、「そもそも気が付いていないこと」に謙虚に耳を傾けようとした時、ふと思わぬ方向から「理解させられる」ことがあり、そこに力みはなく、自然と腑に落ちるということがあるように思います。
例えば身近な方と死別すると、問うて応える人はもう手の届かないところに往かれたけれど、多くの方が「今になってわかったことがある」と仰います。
私にも、いただいてきたものの大きさを惜しみつつ、気が付かなかった自分を悔み悲しんだ経験はあります。私たちが何か(誰か)を理解していくというのは、本当の意味ではその対象を失った時なのかもしれません。
大切な誰かと一定の距離を与えられることで、漸く気が付くのです。それは決して自ら気付いたのではなく、一緒にいる時には身近であることが却って壁となって、理解できていなかった自分に気付かされたにすぎないのです。
故人に抱く感情は故人からのいただきもので、故人を縁とした法要や法座などの仏事も故人からのいただきものです。そういう意味では、全ては自発的なものではなく、授かったものばかりだったのではないかと思うのです。
誰かと一緒に生きることは決して安穏なことばかりではなく、日々色んな感情がおこります。大切な方でも大切に思えない日があったり、傷つけたり傷つけられたり。少しも一貫性がなく、何が飛び出すかわからない私(因)は、相手との関わりを授かって(縁)、結果的(果)に喜怒哀楽の感情が生まれているような有様です。
「長年にわたって染込んだ自分の常識をもって」何でも理解しようとするということは、仏法だけではなく、縁ある誰かからいただいているものも謙虚に受け入れることなど出来るはずもないでしょう。自分の都合(物差し)で良し悪しと分別して、理解できたと結論づけて、それ以上そのことと向き合わなくなるのです。それでは、大切な方のことばの本意は聞こえないまま終わることもあるでしょう。
幸せになりたいと願って日々頑張って生きているだけなのに、なぜか大切な誰かと壁を作るような悲しい生き方になってしまう。そんな私に「自分の物差しではかり続ける先に救いはないとどうか気付いてくれ」との呼び声が、故人を縁に営む仏事の出発点ではないかと思います。
まもなく春季永代経です。どなた様も、ぜひお参りくださいますよう、ご案内申しあげます。
◎4月21日(日)
午前9時30分勤行 法話2席
午後13時00分勤行 法話2席 いずれも本堂にて勤まります。
ご法話は 岐阜県揖斐郡 等光寺ご住職 石井 法水 師 です。
2024年4月 掲示板
2024/04/06 | コトバ
「学仏大悲心」の「学」とは、
まずそれぞれの物差しを離れて謙虚に受け入れること
いいかえると長年にわたって染込んだ常識をもって、
み教えを理解しようとしないことです。清岡隆文氏
*寺ヨガしばらくお休みします*
2024/04/01 | 寺ヨガ
長らく皆様と楽しい時間を過ごしてまいりました「寺ヨガ」ですが、お寺の都合により、しばらくの間お休みをいただくこととなりました。
これまで素晴らしいご指導をいただいた吉田典子先生、そしてご参加くださった皆様に心より感謝申しあげます。
再開の際は、当ウェブサイトにてご案内いたしますので、またぜひご参加いただけますと嬉しいです。
それでは皆様、またお会いできる日を楽しみにしております!