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2012年5月

5月 1st, 2012 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

信心はいただくもの 自分でおこすと野心になる

古田和弘

今月の言葉は、大通寺の【しんらん講座】で古田先生が仰った言葉からです。
私は別院の列座なので、御文を拝読する機会が多い。

御文の一帖目の七通「弥生なかば」の一文で、

いままで信じまいらせそうらわぬことのあさましさ、 もうすばかりもそうらわず。 いまよりのちは、 一向に弥陀をたのみまいらせて、 ふたごころなく一念に、 わが往生は如来のかたより御たすけありけりと信じたてまつりて、 そののちの念仏は仏恩報謝の称名なりとこころえ候うべきなり。 かかる不思議の宿縁にあいまいらせて、殊勝の法をききまいらせ候うことの、ありがたさ、とうとさ、なかなかもうすばかりもなくおぼえはんべるなり。

というところがあり、最近妙に頷けました。

 通常、信心というのは、その信心の対象が、自分が信じるに値する対象であると自分が認めたから信じるもの、という意味で語られるのではないでしょうか。
それはつまり、自分にとって都合がいいのであって、自分の都合が悪くなったら信じない。
○○のようなご利益があるから信じているのだ、と。損得勘定である。まさに野心。
学生の頃よく先生方に、疑いようが無いくらいに自分があきらかになるのが信心だと言われた事が、ことさらに思い出されます。

  歎異抄に「如来よりたまわりたる信心」という表現がありますが、確かに、聴聞を続けていくウチに感じたのは、私が信心を得たかどうかはわかりませんが、とにかく「私の中に、この考え方が生まれてくるようなものは無かったな。聞けて良かった。」でした。

今回、妙に頷けたのをきっかけに、自分の歩みを振り返ってみますと、私には自ら進んで聴聞しようなどという殊勝なココロは無いのであって、長源寺に入寺する際に門徒さんから「ごえんさん、法事の時には少しでもええからお話してぇな」と頼まれ、仕方なく聴聞しようと思い立ったのです。また、その法事でも、門徒さんから依頼を受け、門徒さんが準備をし、親類縁者の方々がそこに集う、という呼びかけや場作りがあって初めて背中を押され、そこに赴く。そして、私がどうであろうともお話をさせていただく場が整えられていたのでした。

そういう事でもなければ、聴聞しても、人にお話したり、談議してみようともせず、思索をすることも無かったのかもしれません。

そういう意味でも、信心とは自分でどうにかするものでもなく、他人がどうにかできるものでもないのだと感じています。