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2019年2月

2月 17th, 2019 Posted in コトバ | no comment »

あの人に比べれば喜ばねばならない心は、他人の不幸を喜ぶ心だ

 

今年も春を知らせる節分の季節がやってまいりました。
この時期は町中に鬼のお面や恵方巻きのオブジェが並んでいます。

豆撒きは、福はこちらで鬼や災いはどこか違うところへという意味で、恵方巻きは願い事をすると叶うのだとか。
言うまでもなく、全て幸せを願って行われる行事ですね。

もう一つ、長浜に来てから出会ったこの時期のものに、二十二日講(通称まわり仏さん)があります。

これは第19代乘如上人の時に起こった「天明の大火」に由来するものです。

当時湖北のお同行が京都まで出向かれて10年の歳月をかけて、命がけで両堂再建を果たされました。落慶時のご門首・逹如上人が乘如上人の2幅のご寿像と御書(お手紙)をお寺ではなくお同行に送られました。以来ご寿像らが順番に各お同行の在所を巡り、お同行が主体となって開かれる仏事・法座が200年以上営まれています。

今年の長浜市本庄町でのまわり仏さんでは、長浜市高月町西野・充満寺ご住職の西野健太郎氏のご法話を聞かせていただきました。

そのお話の中で「幸」と「善」の文字の由来をご紹介くださいました。

「幸」は手枷の象形文字で、捕えられたけれど手枷だけで済んで、殺された人よりは幸せだという事なのだそうです。

それは比較の上に成り立つ幸福感であって、比較する対象によっては幸福感を味わえないという事になります。

また「善」は羊が神への生贄として台の上に乗せられている様子を表しているのだそうです。つまり羊にとっては最悪の事態です。この事から教えられるのは、私が「善し」としている物事は、往々にして私にとっての善でしか無いのです。

豆を撒き、都合の悪いものを遠去け、都合の良いものを願う。また恵方巻きを食し自分の都合に叶う人生を願う。そんな私の願う幸せや善い人生というのは、比較であったり立場の違いで善悪が変化していくようなものでしかないのでしょう。

私たちが本当に求めているのは、そんな誰かの「幸」や「善」と矛盾するような、コロコロ変わるような不安定なものではないはずです。

にも関わらず、いつでも私見を免れること無く、瞬間的な「幸」や「善」に一喜一憂する私です。
だからこそ教えによって、誰の幸せや喜びとも矛盾しない本当に願うべき「尊いこと」に気付かされる事が不可欠なのではないかと思います。