Archive for 4月, 2014

同朋学習会のおさそい

4月 28th, 2014 Posted in 聞法会 | no comment »

 

先日、とある法事の席で門徒さんから、『正信偈の意味が知りたい』とのお気持ちを聞かせていただきました。

そういえばこの付近では、同朋会などの法座はよく開かれていますが、誰でもが参加可能な学習会、それも直にお聖教にふれていくような機会が無かったことに気付かされました。

別にお聖教はお坊さんだからふれるわけではありません。仏教はだれのためでもない、みんなの為に開かれた教えであるはずです。

 

職業も性別も立場も超えて、それぞれがそれぞれの生きる現場を通して、仏教によって伝えられているメッセージを聞き、感じて行く歩みをはじめることができたら素晴らしいと思い、身近なところからお誘いを始めました。

今現在で、20名ちょっとの参加希望とのご連絡をいただいております。

 

我中心の日頃のこころではなかなか気付けない私たちの姿を、正信偈を通して、多くの方々と共に聞いていきたいと願い、ここにご案内申し上げます。

 

◎会  場 真宗大谷派 慶運山 長源寺 本堂(滋賀県長浜市本庄町378)

◎開催日  ①5月14日(水) ②6月11日(水) ③7月23日(水) ④8月11日(月)  ⑤9月10日(水)

※⑥以降は未定です。決まり次第会場にてお知らせします。

※1・2月を除く、毎月1回開催いたします。

◎時  間 19時半~20時半

◎講  師 東近江市 玄照寺住職 瓜生 崇 氏

◎内  容 正信偈

◎持ち物   筆記用具 念珠 赤本(または正信偈の書いてある本)

※お持ちであれば、真宗聖典 肩衣

◎運営費  おひとり年間(3月~12月)6千円ご協力ください。但し今年度は5千円。

※一括でお願いいたします。

 

※参加資格は特にありません。所属寺院(立場)も年齢も性別も何も関係ありません。
参加者の皆さんと足並みをそろえて、基礎からゆっくり学んでいきます。運営上の注意事項も特にありません。質問も自由です。学びも疑問も共有し、肩の力を抜いて、みんなで作る会にしましょう。

 

お問い合わせ 0749(62)4790 ※留守の場合はメッセージを残してください。

多くの方のご参加をお待ちしております。                                    長源寺住職 釋 卓靜

2014年4月

4月 11th, 2014 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

みんな、生きるのに必死だから、恨む誰かを探している。

八重の桜   

インパクトのある言葉だなぁと、今更ながらに思います。

私は大河ドラマに限らず、ドラマはあまり観ません。観ようと思っても予定通りに観ることができないことの方が多いからです。

あの「半沢直樹」も門徒さんにブルーレイをいただいて、休み前に徹夜で観ました。(笑)

さて、冒頭の言葉ですがツイッターだったかフェイスブックだったかで、どなたかがこの言葉だけを呟くように紹介されていました。劇中のセリフのようです。

どうも気になったので書き留めておいたのですが、実はこの言葉、そのまま私たちの姿を言い当てている言葉ではないのかと、最近になって急に頷くことができました。

皆さんも覚えておられると思いますが、震災後さかんに「絆」という言葉を耳にしました。

人は一人では生きていけない。そんなこと誰でも知っています。ですから、「絆」だけでなく、小さい頃から「共に」とか「仲間を大切に」とかと道徳の時間などで教えられます。

結果、私たちは全ての人々と分け隔てなく「共に仲間として」生きることが、とても道徳的で美しい姿であると知ります。そして、仮にそれがきれいごとだとか、建前だとかと言われても、ちゃんと知っているのですから、当然自分は心の持ち方、意識ひとつで道徳的に正しく生きることができると考えています。

しかし、何故でしょう。例えば道徳的で正しいはずの「仲間」をつくろうとする行為が、必ず「仲間外れ」をつくりだします…。道徳的ではありませんね。おかしな話です。

さて、実はそんな道徳的観念を持ち合わせていて、理性的な私が大好きな言葉があります。それは、「ねばならぬ」や「~べき」です。それは道徳的「正しさ」から発せられる言葉です。

学校でもどこでも、「正しく」あろうとする姿というのは、評価されるべき美しい姿であると教えられます。私もそう思います。悪いことではないと思います。

しかしだからこそ私たちは、知らず知らずのウチに正しい自分と間違っている他者をつくりだし、相手と私の間に何らかの境界線を引いてしまうということはないでしょうか。

意識のなかで境界線を引くことで、必然的に内側と外側をつくり、内側には正しい私が、外側には私と意見の合わない誤った考えの人、つまり正しくない(道徳的でない)人がいると仮定し、自分の基準で人を分類し、レッテルを貼ってはいないでしょうか。

そして、ついにはそういう種類の人が実存するかのように感じ、嫌悪感を抱くことも…。

まさか善良な一市民であるはずの私が、自分だけの基準によって、人を善人と悪人とに振り分けるような差別的な視野を持ち、恨んだり蔑んだりしているなどとは想像もできません。

正しさ」は素晴らしいのですが、相手がどうであれ、自分の側から見た正しさと誤りによって勝手に線引きをするわけですから、正しさを自分の側に引き寄せてしまいがちです。

しかも私の思う正しさを絶対化してしまうので、誰かに「ねばならぬ」や「~べき」と言う時、無意識のウチに、「私の思う正しさ」に「こうあってほしい」が付け加えられます。

そのため「分からん人はしょうがない」として我慢してやるか、あるいは「ダメなやつだ」と見捨てることによって、何があっても相手が悪くて自分が正しいのだと突き進んでしまいます。なぜなら、意見の違う相手は善であってはならないのです。必ず悪であってほしくて、自分は正しい。さらに自分の引いた境界線の内側にいる人は、私に同意する人であってほしいのです。

これが「私の思う正しさ」に「こうあってほしい」が付け加えられた姿です。

どうでしょうか。みなさんは身に覚えがありませんか。

果たしてその状況でいて、自分がどのような行動をとったのかを省みたり、それによってどのような影響があったのかを客観的に顧みたりすることができていると言えるでしょうか。

おそらく、もう既に大切な何かを見失っているのではないかと思います。

「私正しさ」が強くて、自分の正しさを誰かに取り上げられることが怖くて、私と意見が違うと容易に認めることができないのです。そしてまた境界線を引き、悲しいけれど外側の誰かを恨んだり蔑んだりする感情が私の中から起こってきてしまう。

しかもそれによって、正しい私とそうでない誰かとの差異をさらに強く意識する。負の連鎖です。

教えに照らされ、見せられた私の姿は、自分では正しいつもりでいても、決して誉めたたえられるような姿ではありませんでした。そこに救いはないでしょう。ましてや縁ある方々と共に生きるということもないでしょう。

みんな、生きるのに必死だから、恨む誰かを探している。

生きるのに必死で、自分本位になってしまい、気付けばまるで恨む誰かを探しているようなあり方になってしまいます。

そんな私自身の悲しいあり方に気付いたとき、ようやく人は本当に共に「生きる」ということに真向かいになることができるのかもしれません。

それが宗教を求める心、つまり求道の始まりだといえるのだと思います。