Archive for 2月, 2016

同朋学習会のおさそい

2月 24th, 2016 Posted in 聞法会 | no comment »

とある御斎の席で、「ごえんさん、正信偈読めるけど、意味がわからんから知りたいねん」と言われたことがきっかけで始まった学習会です。

 

正信偈は、我々真宗門徒にとって非常に身近な存在ではありますが、その奥深さから、簡単に講師を引き受けることはできないといわれています。

しかし、今仏教界の若手で最も有名な瓜生崇師にお願いをしましたところ、ご門徒さんが発起人と聞き「尊いご縁ですね」とご快諾を得て始まりました。

 

あれから、もう3年目になります。あの「ひとこと」のお影です。

今や長源寺以外のご門徒さん方も遠近各地よりおいでくださり、一緒に聴聞させていただき、互いに話せることを、大変うれしく思っております。

 

今年も年10回を下記の通り予定しております。また、住職と坊守を含む、来て下さった方全員で経費を割り算して、参加費を確定しております。

 

是非お一人でも多くご参加くださいますよう、ご案内申しあげます。

 

日程 3/15(火) 4/15(金) 5/15(日) 6/15(水) 7/15(金) 8/5(金) 

   9/15(木)  10/5(水) 11/15(火) 12/15(木)

   

時間 いずれも19時30分~1時間ほど

持ち物 赤本・念珠・肩衣・筆記用具

年回費 年度開始時に確定(年間経費約13万円程)

    また、1回のみのご参加の方にも500円~1,000円程度ご協力いただ

いております。

2016年2月

2月 2nd, 2016 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

ぬけぬけと 「鬼は外」とは その口で

           

世の中は節分で賑わっており、店頭には節分用の商品が所狭しと並んでいます。

 

豆まきの掛け声は『鬼は外、福は内』ですね。

私も幼稚園のお遊戯なんかでやりました。

 

ところで鬼や福と聞いて一体何をイメージされますか。

 

福は健康・長寿・お金などがよく聞かれます。

鬼はその逆と考えたらいいのでしょうか。

 

『鬼は外、福は内』

皆さんは出ていった鬼と、入ってきた福をちゃんと実感されていますか。

 

健康と言っても、どこか調子が悪いと健康だとは言い切れませんね。

少しでも悪いところがあると、不便ですし、愚痴がでます。

 

では長寿はどうでしょう。どれほど長生きしたら長寿だといえるのでしょうか。

現在は全国的に男性の平均寿命は80歳と言われていますが、80を超えれば長寿だと言えますか?

本願寺第8代の蓮如上人の御文では

『夫、人間の寿命をかぞふれば、今の時の定命は五十六歳なり。(中略)予すでに頽齢六十三歳にせまれり。』(4帖目2通)とおっしゃっています。

 

63歳で頽齢(老齢)とはおどろきですね。今の感覚とは全く違います。

その時代・状況によって長寿の定義も変わるということでしょうね。

 

以前、きんさんぎんさん(100歳を超えられた双子)という方が世間を賑わしておられました。

ある時、お2人にまとまったお金が手に入り、アナウンサーの「お金を何に使いますか?」という問いに対して「老後の蓄えにします」と答えられたというお話しがあります。

 

私は今年40歳です。初老です。平均寿命で言えば折り返し地点です。

40年なんてあっという間やったなぁと思いますが、40年後、その歳になったら、それは長寿とか老後とかと呼ばなくなるのでしょうか。

たぶん呼ばないような気がします。

もう充分、いつ死んでもいいという死に時なんて本当には来ないのでしょうね。

いつまでも生きるつもりで、不安になり心配します。

 

では、お金はどのくらいあれば幸福なのでしょうか。

お金が足りないと不足を感じますが、お金が充分にあっても思い通りに出来ないものには苦悩し、不満を感じます。これまた愚痴がでます。

 

一体どうなったら追い出した鬼と、呼び込んだ福を実感できて、満ち足りた幸せな気持ちになれるのでしょうか。

 

石川県光闡坊住持の佐野明弘さんは「私たちの楽の中身は苦の記憶である」とおっしゃいます。

 

確かに、かつて三種の神器と呼ばれた「テレビ・洗濯機・冷蔵庫」はとても便利だと思いますが、今それが無い生活が考えられるでしょうか。

必要不可欠。あって当たり前のモノでしょう。

 

「ありがとう」の反対語は「当たり前」と言われますが、今享受している楽が「当たり前」になると新たな不満、新たな苦を感じます。

幼い頃、私の祖父母が「今は便利でええ時代や。あんたらは幸せや」と言っていたのを、「何がそんなに良くなったのだろう」と不思議に思っていたことを思い出しました。

そう考えると、私が何気なく憧れる幸福のイメージは、際限のない欲求の波に溺れ、流されているようなものだったのかもしれませんね。

 

フラフラと移ろい変わる世間の価値に振り回される私の眼こそが、まだ足りないと感じさせる部分を見つけ出すのでしょう。

まるで純白がその汚れをより目立たせるように「有る」ことが「無い」ことを目立たせる。

本当の豊かさと貧しさが見えなくなってしまっています。

 

誘惑に惑わされ、すぐに欠点・汚点、不満だらけの小鬼を生み出し、愚痴をこぼす生き方になってしまう私は

ぬけぬけと 「鬼は外」とは その口で】

と言われても、文句は言えないようなものを、この身に抱えているのだと感じました。