2016年4月
4月 12th, 2016 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »「前(さき)に生まれん者(もの)は後(のち)を導き、後に生まれん者(ひと)は前を訪(とぶら)え、
連続無窮(むぐう)にして、願わくは休止(くし)せざらしめんと欲す。」
真宗聖典401頁
先日、真宗大谷派の教師修練の声明儀式担当として関わらせていただきました。そのことで、宗祖が化身土巻に引用されている、この安楽集の言葉が別の響きをもって届いてきたように感じています。
まず、教師修練というのは、住職の資格を試験だけで終わらせるのではなく、前期1週間、後期1週間、合わせて2週間、携帯電話もテレビもなく、本山の修練道場に籠り、志を同じくする他者との共同生活の中で、聞法・座談・声明儀式を通して自分自身と向き合い、「現実と聖典の間に身を据える」(宮城 顗氏)という念仏者の歩みを確認する場です。
当初、文字通り私は「前に生まれん者」として共に歩もうとお誘いに行くようなつもりでいました。
地元に戻ればすぐに住職にならないといけない切羽詰まった事情の方も、周囲の方に勧められて来たという若い方も、とにかくお衣を着て、この娑婆の生活の中で、「お念仏の道を生きる」ということを共に考えましょうという立ち位置でした。
「お誘い」といえば、どこか聞こえがいいのですが、今思えば、私の心の奥底に「教える側」という意識はあったのだと思います。
しかし出遇ったことで、そして共に聴聞させていただくことで、老若男女問わず、周りの方々の姿勢、あるいは発言から私自身が影響を受け、反応(思考・行動)し、その反応したことにお1人お1人が反応してくださる、言わば呼応する関係を、わずか1週間のことですが、強く感じ、学ばされました。
つまり、「前に生まれん者」と「後に生まれん者」は「教え導く者」と「教え導かれる者」ではなく、共に仏さまの教えに導かれ歩む者として、前と後とが互いに影響し合う。それは決して縦の関係ではなく、呼応する無限の広がりを持つ関係性であり、まさに宗祖親鸞聖人の願われた同朋(僧伽)の歩みとはこのことではなかったかと受けとめました。
もちろん、連綿と先達から続く歩みや、その先達から私たちが受け、後世に伝え残したい願いなど、前と後という関係が不必要だとか間違いだというのではありません。それはいのちそのものが前から後へと伝統され続けてきているように、大切なことだと思います。
でもそれだけではないのです。
伝統されてきたお伝えを受ける役割とお返しする役割もありますが、今現に世代は違えども、場所は違えども、同じ時代を共に生きています。
その互いのいのち(存在そのもの)に上下を決めたり、考えが違うと押し付けたり、独り善がりに閉塞し、関係性を断絶する歩みの先に救いがあるとは思えません。
遙か古より歩み続けられた仏道という道が、確かな歩みの軌跡であり、聞いた私が確固たる存在になるのではないのでしょう。
「さらに親鸞めずらしき法をもひろめず、如来の教法をわれも信じ、
ひとにもおしえきかしむるばかりなり」(『御文』聖典760頁)
と言われているように、受けたお伝えをお返しするにしても、どこまでいっても仏(覚った人・釈尊)の法(教え)を中心とし、その法に共(僧・僧伽)に導かれていくこと。これが宗祖親鸞聖人の
「弟子一人ももたず」(前掲書760頁)
ということと、
「御同朋、御同行とかしずきて」(前掲書760頁)
というお姿にほかならないのでしょう。
私はここに人生の広がりを強く感じ、同時に仏法僧の三宝に帰依するということはそのまま、私たちの生き方の方向性を決定づけることだったのだと改めて感じました。
今回、教師修練でのお役目を頂戴しましたが、修練生の皆さんのみならず、私の為の修練でもあったと有難く振り返っています。
※文中の僧とか僧伽というのは、職業とか立場としての僧侶のことだけを指すのではなく、仏(釈尊)の法(教え)を中心に集った人全員のことを僧伽とか同朋とかといいます。この仏・法・僧を三宝といい、仏教徒の証として大切にしています。