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2017年1月 修正会

12月 25th, 2016 Posted in コトバ, 法要案内 | no comment »

正月は 冥途の旅の 一里塚

 めでたくもあり めでたくもなし  一休宗純

 

かの有名な一休さんは髑髏(しゃれこうべ)を棒の先につけて、新年早々家々の門口で、「ご用心ご用心」と叫んで歩いたことがあるそうです。

 

めでたいと浮かれていても、それも必ず終わる
今より若い時はなく、必ず最期は迫ってまいります。
そして、それがいつなのかわかりません。

 

私はウェブ上で予定管理をしているのですが、曜日や日にちの決まった仏事や行事は、自動的に繰り返し予定することができる機能があります。

 

ふと100年くらい先を見ると、やはりちゃんと報恩講や修正会が勤まる予定になっていますし、家族や友人の誕生日もありました。

 

一体いつまで生きるつもりなのでしょう。
便利で快適なものは、死を忘れさせます。

 

私はお正月で、数えの42歳になりました。まだまだ若いと言われますが、健康寿命でいえばあと何年家族と一緒に過ごせるかわからないのです。

 

でも、そういえば今までだって、考えてみたことがないだけで、命の保証などなかったのでした。

 

40年は本当にあっという間でした。
つまり、この先もあっという間なのでしょう。人生が過ぎ去るのは驚くほど早いです。

 

そう思うと、「理想の生活」や「しなければならないこと」に忙しく急き立てられるように生きる自分に疑問を感じます。

 

本当に幸せな人生の姿が、何かが思い通りになることや、経済的に豊かな生活を送ること以外に見えなくなっているのではないかと思うのです。

 

そんな中、昨年末ある聞法仲間でもあるご門徒さんの一言で、ハッとさせられました。

 

「宮尾くんあのな、この歳になると死を実感するんや。もっとちゃんと仏法を聴聞せなあかん。病院のベッドに縛られてからでは遅いんや。」

 

経済的豊かさや思い通りになる事に目を奪われる、そんな私の浅はかな有様に「ご用心」との呼びかけです。

 

乾いた喉を潤すように求める目先の快適便利な生活は、すぐに当たり前になり、また喉は乾きます。
そんな浮いた生活を繰り返し、突然目の前に訪れる死を前に、なす術もなく別れを告げなければならなくなるというのが厳粛なる生命の事実です。

 

どうか本年も、共に聴聞しお念仏いたしましょう。
本当に「生きる」ということを共に考えましょう。
何卒、よろしくお願いいたします。

まもなく修正会です。是非お参りください。

 

修正会

日 時 2017年1月1日(日) 午前9時 御始

場 所 慶運山 長源寺 本堂

みなさまのお参りを、こころよりお待ちしております。  釋 卓靜

2016年12月

12月 1st, 2016 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

今にして 知りて悲しむ 父母(ちちはは)が 

われにしましし その片おもひ

 『冬木原』窪田空穂(くぼたうつぼ)

今月のことばは、11月の報恩講で、相撲町・浄願寺の澤面宣了(さわもせんりょう)師がご紹介くださった短歌です。

 

毎年この時期は、最も体調管理に気を使います。

長源寺だけでなく、他のお寺やお家で、たくさんの仏事にお参りをさせていただく時期でもあるからです。

 

そんなある日、母親から「重い荷物を運んで欲しい」との連絡がありました。

 

兄も大阪へ通勤していることから、法要の多いこの時期は帰って来れないこともしばしばです。母が近くに住む私を頼ってくるのも無理のないことなのです。

 

数日前に連れ合いからそのことを聞いてはいたのですが、忙しいのを理由に連絡も後回しになってしまっていました。

 

もうまもなく実家のあるお寺でも報恩講がお勤まりになります。
母としても早くしてほしかったのでしょう。
返事のない私に痺れを切らし、連絡してきてくれたのです。

 

「ごめん。今忙しいねん。」

 

そう言い終わるやいなや、言い訳するかのように、矢継ぎ早に自分の都合だけを母に告げている私の脳裏に、澤面師の法話がよぎります。

 

「親の恩 歯が抜けてから 噛みしめる」
君は、自分一人で大きくなって今まで生きて来たのかい。

 

両親から無償の愛情を注いでもらって来たのに、いつの間にか、今の自分がある(果)、そのことのいわれ(因)をたずねることもなく、自分の都合や自分ができること(手柄・能力)しか見えなくなっていました。

 

きっと家族や同僚、誰に対してもそうなってしまっているのだと思います。
本当に悲しいあり方です。
まさに「させていただく」のではなく、「してあげる」という慢心を育ててきただけの、恩報(し)らずな私でした。

 

これこそが、何でもよくわかっているつもりの、確信に満ちた「無明」という惑いのすがたなのでしょう。

ちゃんとしようと思い、きちんとしようとしているつもりでいても、行に迷い、信に惑う有様です。
何をやっていてもこの体たらくなんですね。

 

思わず溢れた「ごめんなさい」を胸に、急ぎ両親の元へと車を走らせました。