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2018年11月

11月 12th, 2018 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

「人のわろき事は、能く能くみゆるなり。わが身のわろき事は、おぼえざるものなり。」

蓮如上人御一代記聞書

 

『一、「人のわろき事は、能く能くみゆるなり。わがみのわろき事は、おぼえざるものなり。わがみにしられてわろきことあらば、能く能くわろければこそ、身にしられ候うと思いて、心中を改むべし。ただ、人のう事をば、よく信用すべし。わがわろき事は、おぼえざるものなる」由、仰せられ候う。』聖典890頁「蓮如上人御一代記聞書」

腰が痛くて病院で血液検査をした時に、肝臓の数値がよくありませんでした。
それでも痛くて動けないし、寝つきも悪いので、今しばらくはお酒でも飲んでさっさと寝ようと考えましたが、「もう少し痛みが取れるまでお酒はだめ」と言われてしまいました。

「能く能くわろければこそ、身に知られ」ても、心中を改めようともしない私に、坊守からの忠告でした。「ただ、人の云う事をば、よく信用すべし。」誰が正しいのかは、明らかです。

今回はその程度ですが、厄介なのは「おぼえざる」悪いところなんですね。
そんな時には、人の言う事も受け止めにくくなります。
場合によっては忠告も責められたと感じて、責め返してしまう事まであります。

自分の悪いところを知り、人にも教えてもらって心中を改めようと言うのであれば、謙虚にもなるのでしょう。
しかしながら、謙虚に振舞う事はできても、本性までは変えられないのです。

どんなに心中を改めても、反省した私は正しく賢くなったと錯覚し、また「人のわろき事は、能く能くみゆる」ようになってしまいます。
そうして自らのそんな有様も忘れ、相手の都合や状況などを考慮せずに、我が思いで裁くので「人のわろき事は、能く能くみゆる」のです。それが仮に誤解であったとしても先ず「わろき」なのです。

テレビやネットで色んな人の様々な失敗を暴き取り上げて糾弾し、謝罪させて上から物を言う行為が、却って糾弾者自身の恥部をさらけ出しているように見えるのは私だけなのでしょうか。

自分だけは痛まない所から人を責めて、自分は正しく優秀で善良な者であると錯覚する。つまりそれは、「仮想的」有能感です。

物言う時は主語を自分にして、相手と一人の人間として向かい合う事がなければ、どんな人も「悪口」で責め続ける事ができてしまいます。

そしてその事で気分が悪くなるのは、哀れ我が身の悪き事だけはおぼえざる私自身なのです。