2020年9月
9月 6th, 2020 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »他の人を悪人にしなければ 自分が善人になれない
最近は間違いを犯した人や「そのように見えた人」を執拗に非難するような報道が目につきます。
また、コロナに怯えるあまり罹患者への心ない謗りはもとより、疑わしいと感じた人に抗議の張り紙をする人までいました。
それで悲しく辛い思いをする人がいたとしても、どれもこれも自分が善意の被害者になるような正義感が根底にあるので、人を傷つけていても無自覚です。
悲しい事に、実はその表出した言動は人毎に様々でも、通底しているのは勝手に責めて、その事でまた勝手に苦しむ私自身の姿でもあるのです。
先日、高橋法信さん(大阪・光德寺)とお話していて「仏教では人も自分も傷つける事を『罪』と言い、親鸞聖人はその事を『悪』という。罪深い人間だと自覚した人間を『悪人』と呼んでいるんや」と教えていただきました。
人間は、因がどうであれ目の前の「縁」が「自分にとってどう見えたか」が基準となって、果(感情・行動)が変化してしまう「我が心」に囚われ(偏見)て、全てを裁き分ける癖があります。
しかもその心は、見えた縁に意識的に反応するだけでなく、無数の縁にも無意識に影響されて変化し続けるため、身も心も先行き不透明な存在です。そして、その姿を歎異抄では「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」と教えられます。
『善とは何か、後味のよい事だ。悪とは何か、後味の悪い事だ』とはヘミングウェイの言葉です。
果からしか判断できないものだとわかっていても、忙しく変化する我が心に振り回されて、分別(善悪・好嫌)の世界を生きる人間の悲しく愚かな姿を「悪」と言われるのだと思います。
しかし仮に「ほんまやな」と「悪性」に頷いても、心のどこかに頷いていない自分がいるようです。
なぜなら、自分の悪性に「すまなんだな」と頷いた途端に「分別のある善人」とか「悪を自覚した善人」とかに早変わりするのです。
無意識の内に、気付いた自分は気付く前よりも「ましな人間」というグレーゾーンに避難してしまうのです。本当にどうしようもないですね。
何をやっていても、まことあることなし。「なんまんだぶつ」と阿弥陀さんの名を呼ぶ事以外に私がはからい(分別)を離れる事はないのです。
しかし気づけば再び、念仏する「私」や「行為」が「ましな人間」だと錯覚しがちです。だからこそ「ただ念仏のみぞまこと」(歎異抄)なのだという事を、教えを通して繰り返し確かめる営みがとても大切だと思います。
気付かされた所から、またお念仏申しつつ聞法し、日常生活の中で考え続けるという人生が、たとえ頼りない足取りであっても、私にとっては唯一の確かな歩みであるように思います。
……と「ましな人間」になったつもりで言っています。笑