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2021年5月

5月 21st, 2021 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

赤表紙と新聞の間に身をおく 安田理深

 

明治から昭和にかけて活躍された、曽我量深(1875-1971)という先生と、安田理深(1900-1982)という先生がおられます。

「今月のことば」は、安田理深氏が「赤表紙と新聞の間に生きられた」と曽我量深氏の生き様を表現されたのが元の言葉なのだそうです。

 

赤表紙とは真宗聖典(お聖教・仏法)を、新聞とは世間(社会)を象徴しておられます。

それは、教えを通して身の回りの問題を考えたり、あるいは人生の諸問題への自身の判断の根拠を教えに確かめていく生活をいうのでしょう。

私はこの言葉で「身をおく」のが「赤表紙」とも「新聞」ともいわず、その「に身をおく」とおっしゃる所にとても深い意味があるように感じました。

 

例えば仏法を聴聞する時には、その深い意味や願いを理解しようとか、納得したいと思って聴聞します。
ところが「なるほど」と納得した途端に「赤表紙」の側に身をおこうとしたり、そうでなければ「仏法では娑婆はやっていけない」とか「お寺参りどころではない」とかと「新聞」の側に身をおこうとしたりする事があります。

とは言え、実際に今身がある場所は世間(新聞)なのであって、事実ここ以外にはないのです。

 

では「世の中そんなもんや」と居直って、流転する世間に納得したり諦めたりしながら一生を終えるのがいいのでしょうか。

それとも仏法(赤表紙)を聞き自分で納得できるところを掴み、流転する世間を傍目に、その納得した世界観だけに生きる事がいいのでしょうか。

 

私は「間に身をおく」とは「こういうもんや」と居直ったり、自分の納得した答えに居座る事ではないのだと思います。

 

「赤表紙(仏法)」とは、私と同じく生老病死に苦悩した多くの先達が、お釈迦様のお言葉をたよりに生き抜かれた中で見出された事であり、それを後世の私たちに言葉にしてまで伝えてくださった普遍的な「真理」をいうのでしょう。

また、それに対して「新聞」とは、次々に様々な出来事が起こり、時代や状況によって物差し(判断基準)が変化し続ける私を含む世間全体をいうのだと思います。

生きている以上、私達は世間を離れる事はできません。しかし、その中で変化し続ける物差しを、仏様の物差し(お念仏の教え)に問い、考え続けようとする生き方を「間に身をおく」と表現されたのだと思います。