4月 3rd, 2021 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »
我々を存在せしめている根元の力を忘れて
自分の力で生きてきたと威張っているのを罪悪深重という
先月1周忌をお迎えになったあるご門徒さんの一言から気付かされた事があります。
昨年初めに入院された際、お見舞いしてもいいのかと躊躇う私は、人づてに「会いたいそうだ」と聞き、病室を訪れました。
体調の事、一日の過ごし方、心境の変化、色んなお話をしてくださいました。
その際「今になって色々わかってきた事があるわ」と気恥ずかしそうに仰ったのですが、私は安易に共感する事もできず静かに相槌を打つに留め、それ以来ずっと胸に引っかかっていました。
先月、別院の彼岸会で笠原俊典さん(持專寺住職・チャプレン)が、宗祖の仰る「悪人」について「傲慢さ」と言えると表現してくださいました。
例えに出されたのは「安楽死(尊厳死)」です。
賛否が分かれるところですが、認めるには善意で前向きに生命を奪う法制度を整えなければなりません。
私もこの事を真剣に考えると「命を自由にしてはいけない」という思いと「目の前苦しむ方に何もできないのか」という思いの間で悩みます。
しかし笠原氏は、その思想は相模原殺傷事件の犯人の思想と通底するのだと指摘されます。
確かに身体に不自由さがあるとか、精神的に安定しないとか、病に苦しむ事は大変な事かもしれませんが、それは人の命を左右してもいい理由になるのでしょうか。
自然に「何もできないのか」と悩むのもそのはず。
私たちは幼い頃から「できる事」「得る事」こそが人生であって、それが幸せの尺度であるかのように生きてきたのです。
得る事、できる事は楽しく、幸せに感じる事であるには違いないでしょう。しかし、できる事、経験した事など「持ち物」が増える事で、却って見えなくなってきたものはないでしょうか。
できる事、得意な事、苦労などを経験し得ていく過程の中で「傲慢さ」という贅肉がつき、その全てを手柄にして握りしめ、いつの間にかその価値観で全てを裁き、我が思いに囚われ世間に不満を抱き、却って不自由になるのです。
逆に失っていく、できなくなっていく中で、賜っていたもの、していただいてきたもの、いてくださった人に改めて気付き、本当の「豊かさ」や「慈愛」に出遇い直していくという事、この事を「今になって色々わかってきた」と表現されたのではないか、と今は受け止めさせていただきつつ自分ならどうかと考え続けています。
もしかしたら、大切な方との別れをご縁に営むご法事、あるいはお寺での聞法会などの仏事は、「傲慢さ」という不自由な贅肉を知らされ、知らず知らずの内に見失っているものに目や心を向けて、日頃抱いている「不満の正体」と向き合う時間だと言えるのかもしれませんね。
3月 21st, 2021 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »
悟るといふても 迷ふていることを 悟るのである
安田理深
3.11あの日から10年です。当時の「空気感」を今も覚えています。
実は国内での大きな震災は初めての経験で、阪神淡路大震災当時はアメリカのコロラド州に住んでいて、学校にいく前に読んだ新聞で知りました。
公衆電話にはこんなに日本人がいたのかと思うほどの列ができ、混線のため他の国に電話がかかってしまい3度目で日本に繋がり、ようやく地元や親族の安否を確認しました。
ただ、その後は画面の中(海外)の話で、身の回りはすぐ日常に戻ってしまっていました。
そして2011年3月11日。
私は翌日に永代経を控え、役員さんと準備をしていました。
作業がひと段落して休憩している時、疲れがたまっているのかと錯覚するようなおかしな揺れを体感し、その直後ゆっくりと揺れる輪灯(仏具)を見てようやく地震があったのだと気がついたのです。
報道を見て、何をどうすべきなのか戸惑う中「ごえんさんのくせに何も発信しないのか」と注意されるなど、何かしら行動を起こさない人間は「ダメ」だというような経験した事のない「空気」に、日に日に覆われて行ったような気がします。
私は支援物資を送る窓口になったり、web上で支援のリンクをはったり、支援金を募ったりしましたが、いつの間にか「被災地には行けていない自分」に不甲斐なさを感じるようになっていました。
また各地で「支援のあり方」で対立する人がいた事も不思議でした。その全てに違和感を覚えつつ声に出す事はないまま随分経った時、先輩からいただいた本の中に次のような一文を見つけ、その違和感と向き合う事ができました。
『「念仏者の社会実践とは何か」という僕の疑問に対する安田先生の「聞法です」というお言葉です。
今、社会問題について色々言われます。差別問題、原発問題、環境問題、靖国神社問題、競争社会の問題など色々言われていますが、そんなのは形の話であって、要は聞法です。聞法しているかしていないかというだけの話です。
そういう問題に関わるかどうかという事は、ご縁です。因縁の問題です。
誰しもが関われるわけではない。関わりたいけれども関われないという事もある。
関わりたくないと思っても、関わらざるをえないという事もある。それは因縁の問題です。
そういう問題に関して運動することに社会実践の本質があるわけではありません。運動しようがしよまいが聞法です。』
『歎異抄講述・聞書』鶴田義光著
支援活動はできる限りした方がいいと思います。
でも誰かの助けになりたいと願いながらも、支援にまで優劣や条件をつけ、人と人とが寄り添い合えない。
そんな矛盾したものが私たちの「正しさ」や「優しさ」の正体なのでしょうか。
信心とは信(まこと)の心と書きます。対して私の心は「日頃のこころ」と教えられます。
聞法して仏様の「信心(まことのこころ)」を賜り、分け隔てない正しさや優しさを保てない私の「日頃のこころ」確かめ続ける。その歩みを忘れてしまった時、私は真っ直ぐに自分の行為や考えの「正しさ」を握りしめ、正義の境界線で人や物事を分断し、その「偏り」に気付く事すら難しくなるのでしょう。
2月 1st, 2021 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »
生活はすべて 次の2つから成り立っている
したいけれどできない できるけどしたくない ゲーテ
「次の世代は無理ちゃうか」
仏事や地域の伝統行事などでよく耳にします。
今の所その「次の世代」は私とほぼ同世代です。
私の身の回りでは最近、コロナが1つのきっかけとなって、色んな仏事や伝統行事の見直しが行われ「もうやめよう」とか「続けられるように変えよう」とかという意見があります。
でもこれは今に始まった事ではないでしょう。
特に仏事というのはいつでも消滅の危機に晒されながら存続してきたのだろうと思います。
現に今、一生懸命に仏事に関わり仏法聴聞くださっている方も、若い頃からそうだった訳ではないとおっしゃる方が多くいらっしゃいます。
実際、仏法を聞いたり仏事を執行したりしなくても食べていくには困らないのです。仏事を執行して聴聞する事と、自分が「食えるか食えんか」という事とは関係ないので、あってもなくてもいいと考える方もいらっしゃいます。なので、お寺の役を引き受けたり、大切な方の葬儀があって初めて意識したという方も少なくはないのです。
確かに私も衣を着る生活をしていなければ、儀式のお稽古や仏法聴聞をしていたかといえば、恐らくそうではなかっただろうと思います。
以前、どこかで見てメモしておいた事なのですが、school(学校)の語源はギリシャ語のschole(暇)なのだそうです。
人を雇って労働を任せ、そのおかげでできた時間を自由な思索や討論に当てる事で、物事の本質を捉えようとするギリシャ哲学が生まれたのだとか。
仮に暇があっても好きな事をしたくなる私は、自分の都合でしか物を見る事ができておらず、偏見なく人生の本質を捉える事など到底無理です。
仏事(仏法)に教えられた普遍的な言葉で漸く生きるという事について考えたり、互いに語り合ったりする事が始まるのだと思います。
つまり仏法とは目印のない人生の道しるべです。
その道しるべをすぐに見失う私のために、朝夕の勤行やご法事などあらゆる仏事をご縁に仏法に出遇うように促す営みが伝承されたのです。
仏事によって、溢れる欲求にあくせくする日常生活から一旦立ち止り、仏法を通して生老病死する私の人生に真向かいになる時間(schole)を賜る事が肝心なのでしょう。
とは言え、私には伝統的な「形式」を守る事、変更する事の善し悪しはわかりません。
唯一言える事は「コロナでなくても変わる」という事です。今までも様々な変化はあったはずです。
ただし、やめたり変更したりする時には「次の世代」を判断理由にはせず、必ず自らが「なぜ」そして「何が」大切に伝えられてきたのかを考え、互いに確かめ合って判断する事が大切だと思います。
そして、それこそが過去と未来の方々に対して今の私たちが示す事のできる「誠意」だと言えるのではないでしょうか。