コトバ

2020年1月

1月 1st, 2020 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

「どう生きるか」より

「生きているとはどういうことか」の方が先ではないのか。 池田晶子

 

新年明けましておめでとうございます。
旧年中は公私共にお世話になり、有難うございました。
本年もどうぞ宜しくお願いいたします。

 

さて、一年の計は元旦にありと言われます。
新年にあたり、今後の生き方を考えるという事はよくある話だと思います。

 

しかし、文脈はすっかり忘れましたが、20代の頃好んで読んでいた故池田晶子氏の著書には「どう生きるか」より「生きているとはどういうことか」の方が先だとありました。

 

確かに、生まれようと意識して生まれたわけでもなく、境遇も見た目も全てが先に与えられて、気が付いたら生まれていたのが私です。
そんな私は、自分では歩く事も話す事も全くできない者として生まれたにも関わらず、家族をはじめ、多くの方々に支えられ励まされながら、なんとか今日までお育ていただいてきたのです。

 

またその過程で「こういうもんや」「ああいうもんや」と物事を判断する「物差し」(基準)を教えられ、自分なりに更新もしながら今まで生きてきたのでした。

 

そして、その「物差し」で計った世界観で「こうあるべき」と思う生き方を目指し「ああなりたい」と志す方向へと進むべく「どう生きるか」ばかりを試行錯誤して生きてきた様に思います。

 

ふと気が付けば、生きている事実を当たり前の事として不問にし、世の中こういうもんやという偏った「物差し」を握りしめて気忙しく計算しながら生きる事がやめられなくなっているのです。

 

時々そんな生き方がしんどくなっても、今自分は疲れているだけだと言い聞かせて、しばらくするとまた「どう生きるか」と頑張るのです。
まるで「どう“思い通りに”生きるか」と少しでも納得できる人生の生き甲斐や意義を模索するかのように。

 

ところで「どう生きるか」と考える事ができるのは、健康や能力、経済活動が盛んである事が前提となっている事が多いように思います。
その前提を「物差し」(基準)にする時、無意識に幼い子どもやお年寄り、病気の方など介助者が必要な方は脇に追いやられる傾向にあります。
しかもその際、縁次第では自分自身も前提から外れる事があるという事も忘れられがちです。

 

もし今、世知辛いと感じているならば、「物差し」そのものを問い直す必要があるのだと思います。

 

「物差し」とはあくまでも数ある基準の一つです。
比較分類し、何かが判断できたとしても、そのものに生き甲斐や意義は存在しないはずです。

 

それよりも私たちには共通して「生きている」という事実が先にあるのです。
「物差し」を手放せないままでも教えを聞く事を通して「今賜っている事実」という所から見えてくる景色は、計算した所から見た人生とは大きく異なるのだと思います。
そして、その事実に出遇えた喜びは、いつも新鮮でありながら懐かしいものであるように思います。
どうか本年も共に仏前でお念仏申し、聞法する生活を続けましょう。

 

改めてご案内いたしますが、2月29日には御遠忌お待ち受け永代経(澤面宣了師)を予定しております。
また、3月からは同朋学習会(瓜生崇師)や寺ヨガ(吉田典子師)を再開いたします。
さらに4月4日、5日には蓮如上人500回御遠忌と宗祖親鸞聖人750回御遠忌(藤場俊基師)、8月14日には盂蘭盆会でお念珠作り(早嵜和典師)。そして11月14日、15日には報恩講と秋季永代経(松下蓮師)です。
その他、何かと目白押しの年ですが、本年もどうぞ宜しくお願いいたします。

2019年11月

11月 25th, 2019 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

それ非常の言(ことば)は常人の耳に入らず。

                                                     教行信証 証巻(真宗聖典287頁)

 

中国の曇鸞大師のお言葉です。

 

非常のことばと言うのは、日常的に語られることの少ない言葉を指すのだそうです。

また常人と言うのは、自らの思いに従って日常生活をする人、つまりは私の事です。

そして、その日常生活を根底から支えているもの、あるいは日常生活の背景にあるのが「非常の言」つまり、非日常(の言葉)であると教えられます。

 

長浜教区(滋賀県米原市〜福井県敦賀市)という地域は「土徳」と言われるように、真宗の教えが文化にまでなり、言葉となって伝わっています。例えば、「赤ちゃんもろた」とか「参らしてもろた(亡くなった)」などです。しかし、近年その言葉たちも見失われつつあるように思います。

 

例えば、赤ちゃんは阿弥陀さんからもらう(預かる)のではなく「作るもの」になってはいないでしょうか。

「作る」ようになると自分の思いによって、作ったり作らなかったりし、命も都合に左右されます。

 

私たちが「日常」だと思っている生活とは、大抵自分の思い通りの生活です。日常生活とは、無意識に当たり前の生活の事だと考えていますが、実は経験から予測した範囲内の生活でしょう。

 

対して、非常のことばが表現している世界というのは、私たちの日常を破ってくる世界です。

生老病死をとってもそうです。

どれか一つでも出てくれば、私の日常はいとも簡単に吹き飛び、非日常に放り出され、どのように受け止め、考えたらいいのかわからない事態に行き詰まります。

 

そんな非日常のことば(世界観)に導かれ、私に先立って生きてくださった方々のお言葉が、御経や和讃などのお聖教になって伝わっているのでしょう。そして、その私たちの日常を支える非日常の世界を「真実」とか「真理」とかと呼んだのではないかと思います。

すぐに「自分の思い」に埋もれて右往左往する私には、お念仏申し、繰り返し繰り返し聴聞する以外に確かな人生の歩みは無いように思います。

2019年10月 / 報恩講・秋季永代経のご案内

10月 8th, 2019 Posted in お知らせ, コトバ, 徒爾綴 | no comment »

一人の人の死は悲しい

しかし、残された私がその事から何も学ばず

何ひとつ生み出せないとすれば

それはもっと悲しい            酒井義一

 

「終活しておいた方がいいかな」というご相談がしばしばあります。

そんな時、私はいつも「あまりお勧めはしません」とお応えしています。

実際、私は娘に「君が納得できるようにしてくれればいい」としか伝えていません。

 

なぜなら、終活を丁寧にすればするほど、遺された人は悩む事なく葬送の儀を執行する事ができますが、それが本当にいい事なのか私にはよくわからないからです。

 

私は「悩む」と言う事は「向き合う」事だとも思うのです。

大切な方の死を受け止めるには時間がかかるものですが、その悲しみの中で慌ただしくも様々な決断を迫られ、その事で悩み、相談し合い、決断していく行為には大切な意味があると思います。

 

大切な方をどの様に送るのかと悩む事は、今後自分がその死(その方)をどのように自分の内に抱え、受け止めて生きるのかが含まれていて、それは同時に「跡を継ぐ」事の始まりとなっているように思います。

 

私自身、先代住職と共に生活したのは半年ちょっとですが、今でも生活していた頃の思い出だけではなく、葬儀や中陰の事が思い出され、折に触れ「先代から受け継いだ」”今”を意識します。

 

また、遺品整理も大切な出遇い直しのきっかけとなります。

どんなに些細なメモ書きであったとしても、そのメモを手に取る事で、跡を継ぐ者は何かしら感じるものです。

物に触れ、思いを馳せる事によって故人の大切にしていた事、あるいは人知れず悩んだり喜んだりした一面に気付かされる事があるのです。

そしてそれを通して、再び故人を身近に感じる事で、今ある自分の有様を振り返るきっかけにもなります。

今、仮につまらない物だと思っても、遺された人にとっては大切な遺品となったり、思いもよらない気付きになったりするのです。

 

家族葬も増えているそうですが、遺品だけでなく、「人間関係」もその人が生きた証です。

都合の良し悪しではなく、縁ある方々と共に見送る事を通して、遺された人は「自分の知らない故人」に出遇う機会をもらうのだと思います。

 

なので、必ず終えるこの人生に悩みつつも、教えに導かれながら生き切る事が一番の終活だと思います。

来月11月9日(土)、10日(日)は報恩講です。

それぞれが教えに訪ねてく時間を共に過ごしたいと思います。

 

報恩講

◎11月9日(土)

13時30分 逮夜

御俗姓 大阪 光照寺 日野廣宣 師

ご法話 大阪 法泉寺 永井貴宗 師 2席

18時   初夜兼お内仏御取越し

御伝鈔 住職

ご法話 大阪 法泉寺 永井貴宗 師 1席

◎11月10日(日)

7時    晨朝

朝御講(御斎をみんなでいただきます)

10時    結願日中

ご法話 大阪 法泉寺 永井貴宗 師 1席

 

秋季永代経

13時30分

ご法話 大阪 法泉寺 永井貴宗 師 1席

以 上