1月 1st, 2019 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »
この世には唯の一つとして 急がねばならぬことはない
毎田周一
新年明けましておめでとうございます。
旧年中は公私ともに何かとお世話になり、本当にありがとうございました。
昨年は個人的にも色々ありました。
娘が大学入学そして一人暮らしを始めたこと。
前住職の13回忌法要をお勤めさせていただけたこと。
住職や別院職員の他に「GRAPHIC DESIGN JOC」(勤行本・書籍・ポスター・名刺・ロゴ等のデザイン/製作)という仕事を始めたこと。
派手ではないものの、私としては大きなことが色々とありました。
なので本年もさらに頑張って参りますというのが一般的でしょうし、私からも違和感なくスラスラと出てくるのです。しかしご承知の通り、昨年の紅葉の頃に腰を悪くしました。動けなくて焦っていた私に、ある先輩が次のような詩を紹介してくださいました。
悠々というこの二字が
しっかりと透徹してわかれば
仏教の本質がわかる
仏法はそこにつきる
この世には唯の一つとして
急がねばならぬことはない
このままということのほかに
何もないからである
ゆっくりと歩いておれば
追い越されるというのか
急いでゆく人には
先にいってもらえばよいのだ
せかせかしたことに
何も充ち足りたいのちはない
ゆっくりと行くこと
そこにだけ生命の充足がある
「悠々」毎田周一
そして、最後に労いの言葉と、焦るなよという趣旨の短い文章がありました。重く響きました。
仏事であろうとなんであろうと、私が頑張る根拠なんて、理由はともあれ自分の都合を中心にして、そして健康を当たり前の前提としています。
そして、もっともっとと焦って無理して頑張るのです。欲の限りに。
哀れ私は何を本尊として生きているのだろう。私は充ち足りたいのちを生きているだろうかと教えに導かれながら生きたいものです。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
12月 11th, 2018 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »
「私」を出発点にしたものは、
真実にはならない。それが仏智疑惑。 佐野明弘
この言葉は、長浜別院と五村別院の「しんらん講座」で佐野明弘氏が仰った言葉です。
当時、ご法話の中で思わず書き留めたのですが、最近また味わい深い言葉だとしみじみ感じておりましたので、ご紹介いたしたく掲示板の言葉にさせていただきました。
「私」を出発点にする。
実は私にはそれ以外にはないのではないかと思います。
全て私の思いを出発点にして、私の納得を着地点にするのです。
つまり、そこには普遍性も不変性もないのです。
あるのは私の都合です。
日常生活のあらゆること、全部そうです。
どんなことをしていても、誰かや何かの為であったとしても、「これで良し」と自分を善しとした上での行為です。
そして、その都度損か得か、都合が良いか悪いか、正しいか間違っているか、一つひとつ足し算と引き算をします。
私を出発点にした途端に、あらゆる事には「はからい」が混ざります。
つまり、どんなに立派な行為でも、どんなに非難されるような行為でも出発点が同じなのです。
その行為の根底には、私の「思い」こそ確かなものだとする「私信仰」があるのです。
ご本尊を阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)だと言いながら、実は最初から阿弥陀如来ではなく「私の思い(納得)・私の経験」で私を救おうとしているだけなのです。それを仏智疑惑と仰ったのです。
「私信仰」では、世の中は都合のいい人(事)悪い人(事)に二分化されてしまいます。それは仏智とは言えないでしょう。
今月のこの言葉によって、仏教徒面・善良な市民面をしながら、私は何を本尊(本当に尊いこと)として生きているのかを見せつけられたような気がしています。
仏様の智慧に対して私の知恵は私にだけ都合の良いものを選び取る知恵です。
古来その知恵の頭には時として「悪」や「浅」が付けられます。
そうして我が身が末代無智だと知らされた喜びとは、その教えが真実であり、私の思い以外に確かな真実があったと再び歩み出せる喜びであると思います。
11月 12th, 2018 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »
「人のわろき事は、能く能くみゆるなり。わが身のわろき事は、おぼえざるものなり。」
蓮如上人御一代記聞書
『一、「人のわろき事は、能く能くみゆるなり。わがみのわろき事は、おぼえざるものなり。わがみにしられてわろきことあらば、能く能くわろければこそ、身にしられ候うと思いて、心中を改むべし。ただ、人のう事をば、よく信用すべし。わがわろき事は、おぼえざるものなる」由、仰せられ候う。』聖典890頁「蓮如上人御一代記聞書」
腰が痛くて病院で血液検査をした時に、肝臓の数値がよくありませんでした。
それでも痛くて動けないし、寝つきも悪いので、今しばらくはお酒でも飲んでさっさと寝ようと考えましたが、「もう少し痛みが取れるまでお酒はだめ」と言われてしまいました。
「能く能くわろければこそ、身に知られ」ても、心中を改めようともしない私に、坊守からの忠告でした。「ただ、人の云う事をば、よく信用すべし。」誰が正しいのかは、明らかです。
今回はその程度ですが、厄介なのは「おぼえざる」悪いところなんですね。
そんな時には、人の言う事も受け止めにくくなります。
場合によっては忠告も責められたと感じて、責め返してしまう事まであります。
自分の悪いところを知り、人にも教えてもらって心中を改めようと言うのであれば、謙虚にもなるのでしょう。
しかしながら、謙虚に振舞う事はできても、本性までは変えられないのです。
どんなに心中を改めても、反省した私は正しく賢くなったと錯覚し、また「人のわろき事は、能く能くみゆる」ようになってしまいます。
そうして自らのそんな有様も忘れ、相手の都合や状況などを考慮せずに、我が思いで裁くので「人のわろき事は、能く能くみゆる」のです。それが仮に誤解であったとしても先ず「わろき」なのです。
テレビやネットで色んな人の様々な失敗を暴き取り上げて糾弾し、謝罪させて上から物を言う行為が、却って糾弾者自身の恥部をさらけ出しているように見えるのは私だけなのでしょうか。
自分だけは痛まない所から人を責めて、自分は正しく優秀で善良な者であると錯覚する。つまりそれは、「仮想的」有能感です。
物言う時は主語を自分にして、相手と一人の人間として向かい合う事がなければ、どんな人も「悪口」で責め続ける事ができてしまいます。
そしてその事で気分が悪くなるのは、哀れ我が身の悪き事だけはおぼえざる私自身なのです。