コトバ

2014年5月

5月 15th, 2014 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

   「みんな」になるな「一人」になれ

玉光順正     

 

いつだったか、玉光さんに『お寺の掲示板に“「みんな」になるな「一人」になれ”と書いておきなさい』と言われたことをふと思い出しました。

 

掲示させていただくわけですから、玉光さんの意図に沿うかどうかわかりませんが、ちょっと考えてみました。

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「みんな」とはいいことだと教えられてきたような気がする。

そして「みんな」になれない人が「一人」なのだ、なんて思うことがある。

そのくせ、「一人」を楽しんでいる人は、どことなくカッコよく見えたりもする。

 

誰も主体的に「みんな」ではない。そう、主体が無いから「みんな」なのだ。

でも「みんな」は「一人」が集まればそれで「みんな」なんだと思っていた。

 

本当の「みんな」の正体は「みんな」の中に放り込まれた「一人」なのだ。

 

だから、誰も本当の意味での「みんな」を知らない。

知らないから、誰も自分からは「みんな」になれない。

「みんな」とは「世間」であり、「組織」であると言ってもいい。

 

私には「みんな」とは違う「一人」であると主張するところがある。

でも、私は「みんな」になろうともする。

「みんな」は「空気」とか「常識」とかと呼ばれる枠組みを有している。

私は「みんな」の枠組みから漏れないかと不安を抱え、苦しむ。

 

私は「みんな」の中にいる「一人」であり、「みんな」からの評価が気にかかる。

 

得体の知れない「みんな」

評価なんか分からない。でも、不安だから自分で想定する。

これが「みんな」ということなのだろうか、と。

 

想定した「みんな」の「空気」に確かさを感じると、その答えを手放せない。

自由な思考や生き方と引き換えに「こういうものだ」と決めて安心したいのだ。

 

ひとたび安心すると、想定した「みんな」の「空気」と異なる存在は嫌がる。

「みんな」という、曖昧だが確かに感じる「枠」に収まらないモノは異物として排除する。

―――それが昨日までの友人、同僚であっても。時には家族までも。

 

その基準は、私という「一人」の想定する「みんな」である。

時には別の「一人」と似通う部分があることもあるだろう。

でも、本当は誰ひとりとして完全に一致することはないのだ。

 

それでも、「みんな」に染まろうと死ぬまで努力する。似通う「一人」たちと「みんな」を作ろうとする。

時には、私以外の「一人」を私の想定する「みんな」に無理やり染めようする。

 

それは、得体の知れない「みんな」や「世間」に完全に支配されてしまった姿だ。

そうして「みんな」を主(あるじ)とする。

 

得体の知れない主(あるじ)の為に、「一人」の心の叫び声に耳をふさぎ続ける。

そして、気ぜわしくはからい続ける、終わることのない歩みがはじまる。

なぜなら、「みんな」は気まぐれだからだ。曖昧な「空気」ひとつで見事に変わる。

 

ついには「一人」が「みんな」の為に、モノのように扱われるようになる。

私は「みんな」に支配され、私は「みんな」に裁かれる。

「みんな」に従わない「一人」のことも裁き続ける。

「みんな」を主(あるじ)とすると、正しさは暴走する。

―――想定外の事故が起きるまでは。

 

本当は「みんな」がわからない。でも、わからないところに眼を閉ざす。

「こういうものだ」と分かったことにする。そうしないと不安なのだ。

 

私は「みんな」の評価がこわい。「みんな」から漏れ、孤立することに怯える。

存在が生き残るために、お互いにけん制し、正しさを主張する。

存在が護られるために、お互いに探り合い、正しさを確認し続ける。

 

本当には誰も何も信頼していないのだ。

そんな私の「いのちの存在を軽んじる生き方」が「もっと」「ちゃんと」と私自身を駆り立てる。

「みんな」を主(あるじ)とし、「一人」を閉ざすとき、私のいのちも「みんな」よりも軽くなる。

私は私という「一人」なのか、それとも「みんな」の為の私なのかわからなくなる。

そして、私の心は支配され、暗く、生きづらい世の中を作りだしていく。

 

まさに「火の車 作る大工はあらねども 己が作りて 己が乗りゆく」

そんな人生は悲しすぎる。求め、目指す方向が違うのではないか。

 

今一度、「一人」にかえろう。身勝手にふるまうという意味ではなく。

 

和を以て貴しと為すことは美しい。

でも、それは「同じ」が貴いのではではない。「共に」が貴いのである。

ばらばらでいっしょである。

 

今一度、「一人」と「一人」にかえろう。

 

自分の価値観、世間を、「みんな」を絶対化し、はからい続ける私だけれど、お浄土の教えによって、すべての物事が相対化される世界を生きよう。

 

それはまた、人間として本当の意味で自立することに繋がる。

無理に考え方を変えたり、自分に嘘をついたりしなくてもよくなる。

自分の人生に責任をもって、自らが考えて生きていくことになる。

 

その歩みは私の人生を私「一人」が大切に歩む第一歩になり、「みんな」と共に生きる第一歩になるに違いない。

 

はからい已(や)まぬ私だけれども

「なんまんだぶつ」と、はからえない「いのち」の世界に還ろう。

 

南無阿弥陀仏

 

釋卓靜

2014年4月

4月 11th, 2014 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

みんな、生きるのに必死だから、恨む誰かを探している。

八重の桜   

インパクトのある言葉だなぁと、今更ながらに思います。

私は大河ドラマに限らず、ドラマはあまり観ません。観ようと思っても予定通りに観ることができないことの方が多いからです。

あの「半沢直樹」も門徒さんにブルーレイをいただいて、休み前に徹夜で観ました。(笑)

さて、冒頭の言葉ですがツイッターだったかフェイスブックだったかで、どなたかがこの言葉だけを呟くように紹介されていました。劇中のセリフのようです。

どうも気になったので書き留めておいたのですが、実はこの言葉、そのまま私たちの姿を言い当てている言葉ではないのかと、最近になって急に頷くことができました。

皆さんも覚えておられると思いますが、震災後さかんに「絆」という言葉を耳にしました。

人は一人では生きていけない。そんなこと誰でも知っています。ですから、「絆」だけでなく、小さい頃から「共に」とか「仲間を大切に」とかと道徳の時間などで教えられます。

結果、私たちは全ての人々と分け隔てなく「共に仲間として」生きることが、とても道徳的で美しい姿であると知ります。そして、仮にそれがきれいごとだとか、建前だとかと言われても、ちゃんと知っているのですから、当然自分は心の持ち方、意識ひとつで道徳的に正しく生きることができると考えています。

しかし、何故でしょう。例えば道徳的で正しいはずの「仲間」をつくろうとする行為が、必ず「仲間外れ」をつくりだします…。道徳的ではありませんね。おかしな話です。

さて、実はそんな道徳的観念を持ち合わせていて、理性的な私が大好きな言葉があります。それは、「ねばならぬ」や「~べき」です。それは道徳的「正しさ」から発せられる言葉です。

学校でもどこでも、「正しく」あろうとする姿というのは、評価されるべき美しい姿であると教えられます。私もそう思います。悪いことではないと思います。

しかしだからこそ私たちは、知らず知らずのウチに正しい自分と間違っている他者をつくりだし、相手と私の間に何らかの境界線を引いてしまうということはないでしょうか。

意識のなかで境界線を引くことで、必然的に内側と外側をつくり、内側には正しい私が、外側には私と意見の合わない誤った考えの人、つまり正しくない(道徳的でない)人がいると仮定し、自分の基準で人を分類し、レッテルを貼ってはいないでしょうか。

そして、ついにはそういう種類の人が実存するかのように感じ、嫌悪感を抱くことも…。

まさか善良な一市民であるはずの私が、自分だけの基準によって、人を善人と悪人とに振り分けるような差別的な視野を持ち、恨んだり蔑んだりしているなどとは想像もできません。

正しさ」は素晴らしいのですが、相手がどうであれ、自分の側から見た正しさと誤りによって勝手に線引きをするわけですから、正しさを自分の側に引き寄せてしまいがちです。

しかも私の思う正しさを絶対化してしまうので、誰かに「ねばならぬ」や「~べき」と言う時、無意識のウチに、「私の思う正しさ」に「こうあってほしい」が付け加えられます。

そのため「分からん人はしょうがない」として我慢してやるか、あるいは「ダメなやつだ」と見捨てることによって、何があっても相手が悪くて自分が正しいのだと突き進んでしまいます。なぜなら、意見の違う相手は善であってはならないのです。必ず悪であってほしくて、自分は正しい。さらに自分の引いた境界線の内側にいる人は、私に同意する人であってほしいのです。

これが「私の思う正しさ」に「こうあってほしい」が付け加えられた姿です。

どうでしょうか。みなさんは身に覚えがありませんか。

果たしてその状況でいて、自分がどのような行動をとったのかを省みたり、それによってどのような影響があったのかを客観的に顧みたりすることができていると言えるでしょうか。

おそらく、もう既に大切な何かを見失っているのではないかと思います。

「私正しさ」が強くて、自分の正しさを誰かに取り上げられることが怖くて、私と意見が違うと容易に認めることができないのです。そしてまた境界線を引き、悲しいけれど外側の誰かを恨んだり蔑んだりする感情が私の中から起こってきてしまう。

しかもそれによって、正しい私とそうでない誰かとの差異をさらに強く意識する。負の連鎖です。

教えに照らされ、見せられた私の姿は、自分では正しいつもりでいても、決して誉めたたえられるような姿ではありませんでした。そこに救いはないでしょう。ましてや縁ある方々と共に生きるということもないでしょう。

みんな、生きるのに必死だから、恨む誰かを探している。

生きるのに必死で、自分本位になってしまい、気付けばまるで恨む誰かを探しているようなあり方になってしまいます。

そんな私自身の悲しいあり方に気付いたとき、ようやく人は本当に共に「生きる」ということに真向かいになることができるのかもしれません。

それが宗教を求める心、つまり求道の始まりだといえるのだと思います。

2013年5月

5月 31st, 2013 Posted in コトバ | no comment »

人の諸々の愚の第一は、他人に完全を求めるということだ。

司馬遼太郎「竜馬がゆく」