2月 6th, 2012 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »
悟るといふても 迷ふていることを 悟るのである
安田理深
「悟る」というと、なにかこう超越した視点を賜ったり、死を恐れなくなったり、悟ると間違いを犯さなくなるイメージがあります。より良くなろうとして悟りを目指しますが、ちょっと違うのかもしれませんね。
強いて言うなら、「自覚」という事でしょうか。
自分が正しいと思い込みすぎる。または、自分の正しさを周囲にわかってもらおうとするがあまり、誰かを傷つけてしまっている事というのは気付きにくい。自覚できませんね。
なんせ、正しいのですから。
自分はわが身を振り返る必要性は無く、むしろそこを理解しない相手こそ、考えを改めるべきであるというスタンスなんですね。人の事はよく見える。
誰かがそうであるという話ではなく、今この文章を書いている私にも当てはまる事です。
先日、娘(小6)が道徳の授業で「自分勝手な人は良くないから、そうならない様に気をつけましょう」という事を学んできたと話しておりました。
とても大切な事なんですが、道徳と宗教の違いはここにあるのではないでしょうか。
自分以外の誰かを自分勝手だと感じても、自分の事を自分勝手であると自覚する人は少ないでしょう。
そして、自分勝手な方を悪い人にして、自分は迷惑を被っている善良な人という所に立つのでしょう。そうなった瞬間から、自分勝手で悪い人に対しては、態度を改める事よりも、先ず正しい自分を相手に認めさせて、反省してほしいと願うのでしょう。
自分自身が思うようにならないのに、人を思うようにしようとする。
これを自分勝手というのではないでしょうか。
我必ずしも聖( ひじり)にあらず。彼必ずしも愚(おろか)にあらず。共にこれ凡夫ならくのみ。by聖徳太子
1月 6th, 2012 Posted in コトバ | no comment »
死ぬぞ 承知しているか その今を どのように 生きるのだ
一休宗純
12月 8th, 2011 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »
待つ長さ 過ぎ去る速さ 生きる今
楽しみな事があると、待ち遠しい。しかし、楽しみな時間は、あっと言う間に過ぎ去る。
苦しい事は、永遠に続くように感じられるが、過ぎ去ってみれば、一時の事である。
顧みれば…
末っ子の私は幼い頃、いつも兄や姉が羨ましかった。早く大きくなりたかった。
自分がその年ごろになると、小さい子供は可愛がられ、許される存在であり、同時に、大人は自由だと思い込み、羨ましくなる。早く大人になりたかった。
大人になると、学生の頃が良かったと思い、上司は楽でいいなと思う。早く上役になりたかった。
管理職になると、自分の事を考えていればいいのだろうと、部下が羨ましくなり、また定年後の人々を見て、悠々自適だと思い、羨ましくなる。
このまま行くと、年老いるまで生きていたならば、私は必ず「若い頃はよかった」と言い、他所の家庭と比較して「早くああなりたい」などと一喜一憂するのだと思う。
常に「いつか」と思い、常に「かつては」と思う。
「今」が無い。どこにも無い。
常に他者、過去と比較している。そしてまだ見ぬ未来を案じ、その狭間で「今」が見えなくなってしまっている。
世間のものさし(価値観)で見出した善悪・正誤・優劣は比較から生まれたものである以上、比較の上でしか成り立たない。
いつ(時代を超えて)、どこの(地域も国も超えて)、誰もが(立場・性別を超えて)頷いてこられた事というのは、状況や立場に関わらず「今・ここ・私」を見る事が出来るはず。
しかし、比較する事はやめられないのでしょう。
ただ、変わらない、比較できない世界観によって、そのつど今現在の私の有様を知らされ、本当の意味で今を生きる事ができるのかもしれません。