平成28年 修正会
12月 23rd, 2015 Posted in 法要案内 | no comment »平成28年 1月1日 午前9時より
本堂にて一緒に正信偈をお勤めさせていただきます。
どなた様もお誘いあわせの上、お参り下さいますようご案内申し上げます。
釋 卓静
平成28年 1月1日 午前9時より
本堂にて一緒に正信偈をお勤めさせていただきます。
どなた様もお誘いあわせの上、お参り下さいますようご案内申し上げます。
釋 卓静
秋麗のみぎり、ご門徒の皆様におかれましては、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。また、平素は当院護持に、格別のご理解とご協力を賜り、厚く御礼申し上げます。
さて、今年も報恩講を共にお勤めさせていただける時節となりました。
日頃はどちらを向いて生きていくべきかと迷い、分からぬまま思い思いに生きている私たちです。思い思いに生きてきたはずなのに、今、ココの私に納得するどころか、今ではなくいつか、ココではなくどこかで「まだなんとかならんか」と思い、あるいは昔は良かったと思ってはいないでしょうか。
その「良かった昔」も、いつか、どこかで何とかしたいと思って頑張って生きてきたのではないでしょうか。大変な矛盾です。
それは日頃のこころでアレが大事、コレも必要と、蜜に吸い寄せられる様に求めるお金、健康、地位、名誉、正しさ…ひょっとして、それらは全て世間の価値観に流され染められ、そう思わされてきたのではありませんか。
そんな私たちがモヤモヤと求めてやまない救いや幸せとは一体何なのでしょうか。
必ず失われていく存在である私たちは、一体どうなれば安心で、何が幸せなのでしょうか。
世間の価値基準は離れられないが、世間のまま、出世間の法をたよりにせよと先達が残してくださった、真宗門徒にとって最も大切な御仏事が始まります。
ご多用のこととは存じますが、共にお念仏申しつつ、それぞれが共々にご講師のお話から自身の有り様を聞かせていただきたいと思います。
万障御繰り合わせの上、ご参詣くださいますよう下記の通りご案内申し上げます。
合掌
記
日 時 平成廿七年十一月七日(土)~八日(日)
報恩講
七日 結願逮夜 午後一時半 / 御初夜 午後六時
八日 結願晨朝 午前七時 / 結願日中 午前十時
永代経
八日 午後一時半
御法話 大阪教区 德因寺 稲垣 直来 師
以 上
平成廿七年 十月 慶運山 長源寺住職 釋 卓靜
春暖の候 ご門徒の皆様におかれましては、益々ご健勝のこととお慶び申し上げます。
気候も温かくなり、桜も咲き始め、いよいよ春季永代経の季節となりました。
今月(3月)の言葉は『死んで往ける道は そのまま 生きてゆく道です』とあります。
(真宗教団連合発行の法語カレンダーをご覧ください)
昨今人生の終末を考えることが「終活ブーム」ともてはやされておりますが、果たしてその実体はどうでしょうか。
どうも人生の終末を考えるどころか、それぞれの経済について考えられていることがほとんどだと言われています。
第一生命経済研教所の小谷みどりさん曰く、終活の中身は、葬儀の際の花の種類や、誰に何をしてもらうかなど、その執り行われ方には興味がなく、どちらかと言えば、「子や孫に迷惑をかけたくない」=「お金や手間がかからなくするようにしたい」というのが本音なのだそうです。
私も親です。その気持ちはすごくわかります。子どもに迷惑はかけたくないし、できれば手を煩わせることなく健康で長生きし、眠るように逝きたいと願います。
しかし実際は、自分が生まれたときと同じように、死期も死に方も選べません。できればその後の面倒だけはなんとかしたいと思うのも無理からぬことだと思います。
その手立てとして終活で、散骨や直葬を選択する方がおられるそうです。
しかしご遺族の現状はどうかといえば、葬儀は悲しんだり、落ち着いて考えたりする間もなく過ぎ去りますが、約半年~1年後に言い知れぬ感情が起こって来て、散骨をされれば「どちらに向かって手を合わせればいいのかわからない」と、毎年散骨された場所に、船をチャーターして出向かれ、かえってお金と時間などの大変な労力がかかり、直葬をされれば、1年後に「1周忌の法事をどうしたらいいのだろう」と、葬儀をしなかったことを悩み、その後の仏事にも悩まれるという矛盾が生じているそうです。
これは私達が終活と言った時に自分の死を想定しているからであって、身近な方の死とは全く別ものとして考えているからだと小谷さんはおっしゃいます。それはつまり
○自分の死 = 無になる → 迷惑はかけたくない
○近親者の死 = 見守ってくれている → 何かしたい
…ということなのだそうです。
しかしそれは、特定の宗教を信仰しているかいないかは関係なく、似たような感情は、誰しも感じているのだと思います。私も例外ではありません。皆さんはいかがでしょうか。
この問題は、永代経を含む仏事などの宗教的儀礼は一体誰のためのものであるのか、ということを考えることに繋がり、同時に生と死を考えることにもなると思います。
生と死を考えるということは、必ず失われていくもので成り立っている、自分や自分の関わりを考えることに繋がるのだと思います。
「死んで往ける道は そのまま 生きてゆく道です」などと言いきって、いざ死んでいくこともできず、今現在生きていることも、グチグチとあれこれ悩み、ままならない私です。
澤面先生のお念仏のお話を通して、先達の願いの詰まった永代経の意味をあらためて問い直しつつ、いかに死し、いかに生きるのか共に考えさせていただきたいと思います。
是非、お参りください。
合 掌
四月四日(土)午前十時~と午後一時~いずれも本堂にて勤まります。
ご法話は長浜市相撲町 淨願寺 澤面 宣了 師にお願いしています。
各勤行後、二席ずつ聴聞させていただく予定です。
ご希望の方は、どなたでもお参りください。
本堂から入りにくい方は、庫裏(住職宅)にお声かけください。
平成二十七年三月
慶運山 長源寺住職 釋 卓靜