Archive for the 徒爾綴 Category

2022年10月 / 報恩講・秋季永代経のご案内

10月 13th, 2022 Posted in コトバ, 徒爾綴, 法要案内 | no comment »

宗教の問題は煩悩でなく、

 分別から人間を解放することになる。 安田理深

 

この言葉には続きがあります。

「分別というものが人間の主体性を奪っている。煩悩が奪っていると、一応いえるけれども、さらに再応考えれば分別が奪っている。」

 

30代前半、自分がどうしていたらいいのかよくわからず、何だかもがいていたような時期がありました。

そんな時連れ合いに「あなた一生懸命誰かに合わせようと無理してない?」と周囲の「正解」に合わせようと必死だった自分の姿を言い当てられ、ハッとさせられたことがあります。

実は自分のことは自分が一番わかっているようで、一旦「こうした方がいい」という「分別」を掴むと、認知バイアスがかかり「それ」以外見えなくなります。

 

またある時は、大きな行事の決定事項が何度も何度も変更になって全く仕事が追い付かない中、それとは別にチームでやるような仕事を「なんとか一人でやってくれないか」という話になり、職場でも家でも常にパソコンと向き合い、永遠に終わらないんじゃないかと思う作業と向き合っていました。

 

そんな大変な時期にある日急に腰が痛くなり、徐々に身動きが取れなくなって、麻酔も効かず他の薬も効かず、10日間ほど安静にすることを余儀なくされたことがありました。

気質的な原因は不明でストレス性のものだったそうですが、実は「しなければいけない事に励んでいるだけ」のつもりでしたから、ストレスが原因だとはにわかに信じられませんでした。

 

「分別のある子」、「分別のある大人」という言葉があります。しかし頼りになるはずの分別によって逆に苦しんだり、知らず知らず自分や誰かを追い込んだりすることがあるのです。

 

それは自分で経験して獲得した「分別」のようで、実は何か過去の心地よくない記憶が底にあって、ある程度社会生活を快適に営むために大切な「正しさ」や「正しい大人・社会人」という、物事を分別・判断する「枠」を教えられ、自分や周囲を規定してきたに過ぎないのではないかと思うのです。

 

「枠」は「惑」に通じると教えられます。

 

迷いは「どうしたらいいのかわからない」状況ですが、惑いは「こうでないとあかん。こうなるはずや」というルールや答えに縛られた状況です。

 

自分の中の「分別」できる「枠(答え)」が増えるほど、そのことを除けて物事を考えることができなくなります。

行き詰まったり進路が狭まってしまう時、思えばいつも私の思いが道を閉ざしていたのでした。

そして悲しいことに、苦しんで手に入れた大切な「分別」は、時代や状況と共に変化し、いつか「過去の常識」に変わり果てることもよくある話です。

 

来月は報恩講です。日常の忙しさから一旦立ち止まって仏前に詣し、お念仏申し教えを聞き、共に判断に迷い分別に惑う、自分自身の眼を確かめたいと思います。是非ともお参りください。

 

報恩講

◎11月12日(土)

13時30分 逮夜

御俗姓 住職

ご法話 玄照寺 瓜生 崇 師 2席

18時 御初夜(お取越しは内勤めにします)

御伝鈔 住職

ご法話 玄照寺 瓜生 崇 師 1席

◎11月13日(日)

7時30分  晨朝

朝御講(御斎)今年は中止いたします。

10時    日中

ご法話 玄照寺 瓜生 崇 師 2席

秋季永代経

13時30分

住職挨拶

以 上

2022年9月

9月 27th, 2022 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

人は二度死ぬ

 

長源寺仏教婦人会では、年に1度映画鑑賞会をします。

今年は、あるご門徒さんのおすすめで「リメンバー・ミー」というディズニーの映画を鑑賞しました。

お念仏とか極楽浄土とかという事とはまた別に、死後の世界が現在の延長線上で描かれているところをとても楽しんで観ることができました。おすすめです。

とても印象的だったのは「人は2度死ぬ」というセリフがあったことです。

自分のことを覚えてくれている人がいなくなると、肉体を失った死後、その存在自体が消えてしまうということでした。

実は竹中智秀先生が「人は2度死ぬ。1度目は肉体の死で、2度目は存在の死です。忘れ去られるのです。これは決定的な死です。だから2度は死なせまいとして法事を営むのです」とおっしゃいました。

ところが故人のためを想って仏事を勤める時、実は故人の思い出だけではなく、自分は故人に対してどういう存在でいたのだろうかと、自分自身を見直しさせられてはいないでしょうか。

また生きている間も、誰かが私を知ってくれているから生きていられるのです。誰も私を知らなければ、どれほど孤独でしょうか。私の思う印象であろうと無かろうと、他者との関わりの中で私は私でいられるのです。

生きていらっしゃっても、お亡くなりになっていても、出会った以上、私は他者との関わりの中で影響を受け続けて存在しているのです。

「リメンバー・ミー」のリメンバーとは「remember」と書きます。

「remember」は「思い出す」と訳しますが、「re」は繰り返しを意味し、「member」はラテン語の心にとどめる「memor」が語源です。

つまり、繰り返し繰り返し心に留めるというのが本来の意味だったようです。

以前先輩に○回忌というのは、「言ってみればお亡くなりになった日が1回忌だと言える」と教わりました。初めて故人の死を受け止める日です。だから1周忌は「言い換えれば2回忌とも言える」2回目、故人の死を受け止めるのです。

繰り返し繰り返し思い起こすことを通して、繰り返し故人と、そして故人も導かれた教えに出会い直し、繰り返し私の日常の有様を見直す。

平素、自分の思いに迷い揺れて悩み苦しむ私が、自分もまた必ず全てを手放して終えていく人生において、何を本当に大切にしていくのかを教えに知らされて人生の立ち位置を取り戻す。そんな時間が故人を縁に訪う(とぶらう)仏事だと言えるのではないでしょうか。

2022年8月

8月 21st, 2022 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

憶念とは、忘れていたものを思い出すという意味 宮城顗

 

本山や別院では7月に盂蘭盆会をお勤めしますが、関西では一般的に8月がお盆の季節です。

この時期はいつも以上にバタバタと境内を出入りします。
ふと参道横の前栽に目をやると、百日紅が綺麗に咲いています。実はこの百日紅を見るたび、先月17回忌を一緒にお勤めいただいた先代住職のことを思い起こします。

ご存知の通り、先代住職と私たち家族は血の繋がりはなく、面識もありませんでした。

先代住職は若い頃、日赤の看護部長を勤めながら住職として頑張って来たようです。
退職後20年経過してもかなりしっかりしており、物事もはっきりと言う方でした。
また厳しい側面もありましたが、情に篤く、芯の通った住職でもありました。

あの頃は、後を継ぐのはもちろんですが、「先ずは家族にならなければ」と思っていたことを思い出します。
日頃から食事は一緒にして、実の親と同じくらいモノを言い、実の親以上に気をつかわなければいけないと思っていました。

それでも「近くに寄れば影が見える」というように、一つ屋根の下に住んでいると色々とあるものです。お互い思うようにはいかんのです。

そんなある日「今年は百日紅の花が見られんな」と言うのです。

私は「百日紅ってどれ?気候が変なの?」と、その意味がわかっておりませんでした。
でも先代住職はその言葉通り、百日紅が咲く前の6月に還浄いたしました。

後から遺品整理をしたり、ふとした時に、故人の思いに出会い直したりすることがよくあります。
気が付いた時にはもういないのです。大切なことはなぜかいつも後から気が付くのです。
何年も経ってから気がついたことも沢山あります。

お互いに煩悩の火を燃やしあっている時には相手に焼かれまいとして、自分の努力や正しさをわかってもらうのに必死です。だから「気をつかう」といいながら、相手の考えや願いを汲み取るのは後回しになりがちです。
それは悲しいことに、縁ある方々から今いただいているものや、以前からいただいてきたものも自分の善悪・好悪・損得で受け止め違いすることが多いあり方です。
その証拠に、相手が煩悩の火を消してくださった途端に、自分本位で浅はかであった、情けない自分の姿と向き合わされます。

自分の感覚を優先してしまう私は、情けない姿に向き合わされたことを傲慢にも「気付いた」と錯覚しがちです。
故人がいてくださったお陰なのです。
この気付きもいただきものなのです。

そういう意味では故人を縁に勤める儀式や法座を縁に忙しい日常から一旦足を止めて、故人との日々を憶念し、教えを通して損得・好悪に揺れる私の眼を、齷齪する私の足元を再確認する時間をいただき続ける営みがとても大切だと思います。