Archive for the 徒爾綴 Category

2020年7月

7月 5th, 2020 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

信心とは 聞き溜めることではなく 聞きぬくことである 大河内 了悟

 

2006年、本山の住職修習で新住職と総代が向かい合って抱負を語り合う機会がありました。

 

当時29歳の私は、先に立派な抱負を発表される新住職さん達の言葉に驚きつつ、懸命に考えながらも何もない自分に汗をかいていました。

 

とうとう気の利いた抱負も思いつかないまま自分の番が回ってきてしまった私は「自分は住職としてどうあるべきなのかわからないし、自分に何ができるのかもわからない。でも、抱負らしい事を言うならば、誰よりも仏法聴聞したい。そして、仏法を喜んでいる中で周囲の人が巻き込まれてくれたら嬉しい」というような事を話しました。

 

ふと、総代であった故 武田省市さんの顔を見ると「そんでええのや」と頷いてくださり、途端に安堵したあの日の事は、今でもよく覚えています。

 

そののち「高光大船の世界」(法蔵館)という本の序文で
「私は如来救済のお手本にはなれないが、如来救済の見本にはなれる」
という言葉に出遇い、励まされたような思いをした事があります。

 

私は誰かのお手本になるのではなく、見本になるのだという事です。
お手本なら「正解」ですが、見本は「サンプル」です。
お念仏申しつつ如来救済のいわれを聞き、教えに導かれながら与えられた人生を生きるのであって、高尚な人物になろうとする必要はないという事でしょう。

 

私は住職になる前もなってからも、ご縁のある多くの方にお育てをいただいていますが、そのお一人おひとりの職業や立場はバラバラです。

それはつまり、どんな職業で、どんな生き方をしていて、何歳であっても教えを通して「如来救済の見本」には誰でもなれるという事です。

 

しかし、「私の思い」「私の考え」では如来救済の「見本」になるどころか、如来救済に背を向ける「お手本」になってしまいます。

教えを聞くというのは、聞き溜めて知識を増やして「私の思い」「私の考え」を補強し、立派な信心の人になる事ではないのです。

「山の中にいると山が見えない 汚れの中にいると汚れが見えない」と言われるように、聞く事を通して、慢心、邪見という「私の思い」に執着する私自身の汚れに気付かせていただくのです。

 

立派な信心を手に入れて、高尚な人物になるのではなく、信心もなく高尚でもないからお念仏なのです。お念仏申しつつ、そのいわれを繰り返し繰り返し聞きぬく以外に何もないのです。

 

予定よりもひと月早く「同朋学習会」を再開いたします。是非お参りください。

2020年6月

6月 14th, 2020 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

他人の人間性を無視すれば

必ず自らの人間性も失っている 和田 稠

 

人間性といえば、「コロナ禍でも日本での死亡率が低いのは、民度の違いだ」と仰った政治家の方がおられます。

お願いをしただけで罰則もないのに国民自ら自制し、耐え忍んだから国民性がいいのだ、と仰りたかったようです。

 

確かに、お互い気を付けあってコロナを蔓延させないように自粛しているのは間違いありません。

しかし同時に、

「コロナになったら、何言われるかわからん」

「一番最初には罹りたくない」

ともよく耳にします。

 

これは国がお願いしたからとか、国民性がいいからという理由よりも、自粛していなかったと思われたり、周囲に感染源だと言われるのが嫌だから「一番最初には罹りたくない」のでしょう。

 

もちろん、軽はずみな行動で罹患して責められても仕方ないかもしれませんが、頑張って自粛していても、感染する時にはするのです。

 

そもそも、罹りたくて罹る人なんてほとんどいないと思います。

 

それでも責めるのは、自分もみんなと同じように頑張って我慢してるのに「けしからん」とストレスをぶつけているのか、あるいは自分が優等生だという根拠を他者の失敗に見出そうとしているのかもしれませんね。

 

ふと、私にはそんな心はないだろうかと顧みると「ない」とは言えないのです。

 

ニュースを見て「あほな事しよったなぁ」という時、私は「あほな事をしない人」のつもりです。間違いを犯さない、善良な市民という一段上に立って目の前の情報だけで人を裁くのです。

 

人を善悪で軽はずみに裁く時、私はその人を「一人の人間」としては見ていないのかもしれません。また、人を立場や肩書きで見る時「こうあるべきだ」と裁く傾向はさらに顕著になります。それこそ、人間性を失っている姿なのでしょう。

 

縁ある他者を自分の「思い(考え)」で見定めたつもりになり、それを「信頼」と呼び、その「思い」と違ったと思うやいなや、信頼を裏切られたと感じて落胆し、途端にその他者を裁いて切り捨てるような冷たい心を持っているのです。だから自分も切り捨てられないように、迷惑をかけないようにと気を使って疲れるのです。

 

それはつまり、私が見た世知辛い世の中の暗さというのは、実は世知辛い私自身の暗さでもあるという事です。
そして、その事を知らせてくださるハタラキを「光明」とか「教え」とかと呼ぶのではないかと思います。

2020年5月

5月 10th, 2020 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

他人の意見を聞こうとしないこれを我慢といい

 自分の意見を聞かそうとするこれを憍慢という

 

同朋学習会のご講師である瓜生崇氏が「なぜ人はカルトに惹かれるのか」という本を上梓されました。

瓜生氏はその中で「マインド・コントロール」について触れる際、ある本を引用し「パラダイム・シフト」という言葉を紹介しておられました。

それは、前提としている認識や法則(パラダイム)によって説明がつかない事象が累積すると、それらを合理的に説明できる新たなパラダイムによって置き換わり、その後は新たな法則を前提とした、問題の解決や事象の説明がなされる事を「パラダイム・シフト」と表現するとの事でした。

そして、その前提が変わるような、自分自身の中で掴んでいた「常識」や「正しさ」が転換(シフト)するような出来事、つまり絶対化していたものが相対化されるような経験があるという事です。

確かに、似たような経験は誰にでもあるのだろうと思います。
例えば、幼い子供が「なんで」「どうして」を繰り返すと、大抵大人は「そういうもんや」と嗜めます。そうして思考する事をやめて受け入れる(納得しようとする)事を繰り返す内にそれが刷り込みとなり、いつしか「そういうもんか」と世の中をわかった様な気になるのですが、何かをきっかけに再び考え始めるような経験です。

「周囲の意見」という刷り込みは至るところである事です。実は世代間ギャップというのも刷り込まれた時代感覚の違いなのかもしれませんね。
また、世の中でも戦前・戦後、あるいは震災以降どれほどの「パラダイム・シフト」が起こった事でしょう。
新型コロナ騒動の後にも起きるのだと思います。

私は、本質的に自分や自分の将来に対して不安であるため「正しさ」や「確かさ」には弱く、自分にとってそう見える考え方や言葉や物を見ると、つい自分のものにしたくなります。
しかし実は、そうやって得た視座や判断力がそれほど間違いではないだろうという思いは「今までやってきた」とか「たくさんの失敗をして学んできた」という経験を掴んでいるだけなのかもしれません。

本当の確かな「教え」というのは、迷いに対して誰かから確かな答えを与えられるものでも、自分の思いで掴み取るものでもないのだと思います。また、確かな存在になろうと背伸びをしたり、意見の異なる他者の不確かさを咎めたりするのでもないのだと思います。

それよりも、私自身が本当は不確か(諸法無我)な存在であるという事、そして全ての事柄が不安定(諸行無常)であるという事実を正確に知らしめてくださるものを確かな「教え」というのでしょう。

玉光順正氏は「浄土とは一切の物事を相対化する原理」と仰います。
常に自分の「納得」や「経験」こそが確かだという思いを握り締め「我慢」と「憍慢」を行き来する私は、繰り返し教えに解放され続けなければ、その思いに嵌まり込んで動けなくなるのだと思います。

コロナの影響で仕事や生活のリズムが変化する事で、いかに自分が「ねばならぬ」と身動きが取れなくなっていたのか実感させられます。
先の事は分かりませんが、迷いながら教えに聞き、考え続けていきたいものです。