Archive for the 徒爾綴 Category

2020年2月

3月 16th, 2020 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

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古人の跡を求めず
 古人の求めたるところを求めよ
      松尾芭蕉

 

2月と言えば、長源寺のあるこの地域では「二十二日講」通称「回り仏さん」という御講が連綿と受け継がれ、営まれています。

以前にも書きましたが、1788年1月30日。
ご門首が乗如上人(第19代)の頃、「天明の大火」によるご本山焼失が事の起こりです。
再建にあたっては湖北から大勢のお同行が出向かれ、詰所に寝泊まりしつつ、昼は奉仕、夜は聴聞の日々を送られたそうです。

当時の事です。行くのも大変ならば、ちょっと帰るということもできません。また、今のように重機もありません、まさに命がけです。故郷には家族も残して、相当の覚悟であったことでしょう。
でも、そのお陰でついに10年後の1798年には、両堂再建が果たされました。

しかし乗如上人は、着工から3年後の2月22日に寿算49歳で還浄されました。遺志を継いだ逹如上人は、落慶の際に乗如上人の御影を奉掛し、盛大に法要を営まれました。ところがその法要後、別れを惜しんでなかなか帰らないお同行に対して、「落慶を国元に報告するように」と逹如上人は乗如上人のご寿像2幅と御書(ご消息・お手紙)を湖北の御同行に送られたという事です。
爾来、乗如上人の御命日である22日から「二十二日講」と称する御講が組織され、200年以上各町村で法義相続の御仏事が営まれています。

しかし正直、何が回ってくるのやら、その方法も意味も他所から来た私にはわかりませんでした。また近年、この御講の意義が見失われつつあって、取りやめてしまう地域も出てきています。けれども私は一緒にお勤めさせていただく中で、これは単に過去のご苦労を忘れない為に営んでいる訳ではなく、この御仏事を通して本当の「安心」に出遇って欲しいという先人の願いが形となって届けられた「伝統」なのだと今は思っています。

宗正元(そう・しょうげん)氏は「安心(あんじん)」というのは「自分の一生涯全体が決まること」であると仰います。
自分の「思い」で人や物事に善悪をつけ、揺れ動き、迷いながら一喜一憂してばかりのこの人生において、一筋に阿弥陀様の浄土へと導いてくださる道標とも言うべき法灯(お念仏の教え)に「私(達)が」出遇う為に伝わっているのだと思います。

今月末には御遠忌お待ち受けの永代経もお勤まりになります。「因習」なのか「伝統」なのか、是非お参りいただき、聞き、語り、お確かめください。

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2020年3月

3月 16th, 2020 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

(2020年3月分)

世の中ままにならぬ、あてにならぬ、無我・無常がゆえに。
                           清沢満之

今、新型コロナウイルスの影響で世の中が思いもしなかった事態に陥っています。
長源寺も「あとひと月で御遠忌」と思っていたところ、臨時役員会で御遠忌は2021年4月10、11日まで延期と決定されました。

移動手段の利便性が上がった現代は、結果的に感染力の強いウイルスが移動するにも非常に便利な世の中になってしまいました。

法座を延期したり中止したりするお寺も多くあります。そんな中、それは「みんなの健康を考えて」と言ってはいるものの、本当は世間の評判を恐れているのでは無いかという厳しい意見もちらほら見受けられます。そして、このような中でも法座を開いたり法要を営んだお寺に称賛の声が上がります。しかしひと度何かあると一転します。

高齢者や基礎疾患のある方は重篤化しやすいと言われたり、場合によっては脳炎を起こす事もあると言われたりしています。
実際このウイルスの危険性はまだまだわからないそうです。また、治った方が数年後に無事だという保証もありませんので、月並みですが多くの意見を参考に、きちんと手洗いうがいで予防しつつ、長距離間の移動がある予定や行事はとりあえず中止して様子をみる事にしました。
しかし最近になって、お寺は密閉空間では無いので御遠忌ほど密集しない法座やヨガは、席を間引いたりそれぞれ体調に注意したりしながら開催できそうだと思い至りました。でも正直、私には何が正しいのかわかりません。

「世の中ままにならぬ、あてにならぬ、無我・無常がゆえに」とは清沢満之師の言葉です。

私自身、何に対して不安になっているのかと思いを巡らせば、人生が自分の思い通りにならないのでは無いかと不安になっているのかもしれません。
ウイルスという、私にとっては思いもしなかった厄介な存在の為に、あてが外れてしまったのです。今までたまたまやってこれたこの人生のあてが。

しかし、あてなんて初めからなかったはずです。本来ならいつどうなるのか保証も無いのがこの我が身です。それを忘れて、未だありもしない未来に思い通りの人生を思い描き、あれこれ画策しながら「予定表の人生」を生きて来たという事に、今コロナ騒動から教えられている様に思います。

諸行無常、諸法無我。いつの時代にあっても、言い続けられた真理の言葉を「知っている」「古臭い」と、輝きを見失うのは私の方なのでしょう。

2020年1月

1月 1st, 2020 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

「どう生きるか」より

「生きているとはどういうことか」の方が先ではないのか。 池田晶子

 

新年明けましておめでとうございます。
旧年中は公私共にお世話になり、有難うございました。
本年もどうぞ宜しくお願いいたします。

 

さて、一年の計は元旦にありと言われます。
新年にあたり、今後の生き方を考えるという事はよくある話だと思います。

 

しかし、文脈はすっかり忘れましたが、20代の頃好んで読んでいた故池田晶子氏の著書には「どう生きるか」より「生きているとはどういうことか」の方が先だとありました。

 

確かに、生まれようと意識して生まれたわけでもなく、境遇も見た目も全てが先に与えられて、気が付いたら生まれていたのが私です。
そんな私は、自分では歩く事も話す事も全くできない者として生まれたにも関わらず、家族をはじめ、多くの方々に支えられ励まされながら、なんとか今日までお育ていただいてきたのです。

 

またその過程で「こういうもんや」「ああいうもんや」と物事を判断する「物差し」(基準)を教えられ、自分なりに更新もしながら今まで生きてきたのでした。

 

そして、その「物差し」で計った世界観で「こうあるべき」と思う生き方を目指し「ああなりたい」と志す方向へと進むべく「どう生きるか」ばかりを試行錯誤して生きてきた様に思います。

 

ふと気が付けば、生きている事実を当たり前の事として不問にし、世の中こういうもんやという偏った「物差し」を握りしめて気忙しく計算しながら生きる事がやめられなくなっているのです。

 

時々そんな生き方がしんどくなっても、今自分は疲れているだけだと言い聞かせて、しばらくするとまた「どう生きるか」と頑張るのです。
まるで「どう“思い通りに”生きるか」と少しでも納得できる人生の生き甲斐や意義を模索するかのように。

 

ところで「どう生きるか」と考える事ができるのは、健康や能力、経済活動が盛んである事が前提となっている事が多いように思います。
その前提を「物差し」(基準)にする時、無意識に幼い子どもやお年寄り、病気の方など介助者が必要な方は脇に追いやられる傾向にあります。
しかもその際、縁次第では自分自身も前提から外れる事があるという事も忘れられがちです。

 

もし今、世知辛いと感じているならば、「物差し」そのものを問い直す必要があるのだと思います。

 

「物差し」とはあくまでも数ある基準の一つです。
比較分類し、何かが判断できたとしても、そのものに生き甲斐や意義は存在しないはずです。

 

それよりも私たちには共通して「生きている」という事実が先にあるのです。
「物差し」を手放せないままでも教えを聞く事を通して「今賜っている事実」という所から見えてくる景色は、計算した所から見た人生とは大きく異なるのだと思います。
そして、その事実に出遇えた喜びは、いつも新鮮でありながら懐かしいものであるように思います。
どうか本年も共に仏前でお念仏申し、聞法する生活を続けましょう。

 

改めてご案内いたしますが、2月29日には御遠忌お待ち受け永代経(澤面宣了師)を予定しております。
また、3月からは同朋学習会(瓜生崇師)や寺ヨガ(吉田典子師)を再開いたします。
さらに4月4日、5日には蓮如上人500回御遠忌と宗祖親鸞聖人750回御遠忌(藤場俊基師)、8月14日には盂蘭盆会でお念珠作り(早嵜和典師)。そして11月14日、15日には報恩講と秋季永代経(松下蓮師)です。
その他、何かと目白押しの年ですが、本年もどうぞ宜しくお願いいたします。