Archive for the 徒爾綴 Category

2018年9月

9月 23rd, 2018 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

各自相互に自覚する外に和合の道はない

曽我量深

 

最近は、パワハラやセクハラなどの報道がメディアを賑わしています。
ちょっと食傷気味です。笑

実はこの〇〇ハラという言葉、パッと聞いただけでは分らないようなものも含めると、30〜40種類もあるのだそうです。
例えばヌーハラ(ヌードルハラスメント)は麺類を啜る時の音が不快感を与えるので慎むべきであるとか、エアハラ(エアーハラスメント)は空気を読めということです。また、カシハラ(お菓子ハラスメント)は特定の人にだけあげなかったり、旅行のお土産を強制したりする事だそうです。

どうも何にでも「ハラ」をつけすぎているような気がするのは私だけなのでしょうか。

事情は様々ですが、近頃は間違いを犯してしまった人を寄ってたかって非難することで、公の場で罪を認めて謝罪する事を求めているように見えます。そしてそれについて飽きるまで、または次の標的が見つかるまで噂をするような報道が多いように感じています。
しかも、その後については報道しない事がほとんどであるという、ある意味公開処刑です。

ハラスメントとは嫌がらせ、いじめ、個人の尊厳を傷つけたり、脅威を与える行為を指します。

自らを絶対的な善とした時、人は暴走を始めてしまう事があるという良い例ではないでしょうか。
人は善や正義の側に立って他者を非難している間は、自らの見直すべき箇所を見失いがちです。そうして正しさが凶器となり、誰かを窮地に追い込んで傷つけても平気でいられるのです。

もちろん話し合う事はとても大切です。しかし、度が過ぎるとハラスメントと変わらない状況になり、間違いを犯してしまった人の尊厳や人権はいとも簡単に踏みにじられてしまいます。

ジャーナリストの故・むのたけじさんは「他に服従を強制するものは、そのもの自体が必ずなにものかの奴隷である」とおっしゃいます。

ならば私はすでに「正しさ」や「世間」「空気」の奴隷であると言ってもいいのかもしれません。
そして私が思う「正しい世間」や「空気」はどこか偏りが強いに違いないのだろうと思います。
なぜなら、誰かが排除されたり悲しんだりする事があるような正しさは、本当の正しさだとは言えないと教えられたからです。

必ず自分に義を立てる私は、実は誰の事も正確には裁けないのです。

各自相互に仏法に我が身を知らされる事で、やっとその過ちに気付く事があるだけです。
それはつまり私は今後も他者と共に、繰り返し知らされ続ける必要があるという事に違いないのでしょう。

2018年8月

8月 19th, 2018 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

はてさて困ったことには
知っていることは何の役にも立たず

肝心のことは何も知らない

ゲーテ『ファウスト』より

 

寺報に書くべき内容が思い付かず悩んでいました。
(ここに書いている事は寺報としてご縁のある方にお配りしています)
しかし、「書くべき内容が無い」という事は、「書くべき」事があると思っているという事です。
多くの方の感想に一喜一憂するうちに、寺報に対して「こうあるべき」という思い込みが出来ているように思いました。
本当は何でもいいはずなんです。この文章のタイトルが「徒爾綴」(いたずらなさま。むだなさま)なんですから。

そういう意味では、もしかしたら自分のやってきた事全てが思い込みではなかったかと思わないでもありません。

今までのあらゆる仕事、あらゆる用事が「これで良し」「こうあるべき」と自分がイメージし、納得できる形での行為でしかなかったのかもしれません。決まりのないところに「前例」という決まり、スタンダードを作り続けているように思います。

その思い込みがたまたま周りの方々と合致すれば褒められやり甲斐を感じ、合致しなければ思うようにならない虚しさを感じる。ただそれの繰り返しであったのかもしれません。

そうして40年以上、色んなことをして生きてきましたが、「肝心のことは何も知らない」のです。

いつも新しい執着、自分の納得を探していつまでも迷っているのです。

教えを聞いても納得できれば有難がり、納得できなければそっぽを向く。
人間関係も仕事も何もかもその調子です。
自分以外の確かなものを求めていても「自分の納得」が判断基準なら、それは同じ事の繰り返し。到達点はいつも出発点なのです。

「空過(くうか)」という言葉があります。
「ボーっと無駄に過ごすこと」かと思っておりましたが、先生には「空過とは気忙しくやるべきことに追われている状態のことで、その時が過ぎてから空過したと気が付くのだ」と教えていただきました。

つまり求めるべき肝心な事を知らないまま、いつも自分の納得だけを探し求めて、常に不満や不安を抱えながら忙しい忙しいと同じ所をグルグル迷う、そんな人生を「空過」というのでしょう。
どうしたらいいのかわからない者がその場その場で納得する理由や根拠なんて、掴んだ途端に色褪せるものです。

人生において輝いて見える魔法のことば「意義・価値」もそうなのかもしれません。

「私」から見出す「意味・意義・価値」は、結局私の考えそのものなので、状況や嗜好が変わればすぐに吹き飛ぶようなものです。
そこに確かな救いなどないのでしょう。
繰り返し教えを聞き、本当に願うべき事、求めるべき方向を賜りながら、私の人生の現在地を確かめつつ歩む他ないのだと思います。

2018年7月

7月 19th, 2018 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

「おかげさま」と言える人生に孤独はない

 

「おかげさま」この言葉はよく口にする言葉ではありますが、おそらく日常では挨拶のように口をついて出ている言葉ではないでしょうか。

先月9日、「おかげさま」で前住職・瑞華院釋尼惠香(宮尾惠美子)の13回忌をお勤めさせていただきました。

ご門徒をはじめ多くの方がお参りくださって、素晴らしいご法事をお勤めしていただけたと感謝しております。

よくご法事をお勤めして「やれやれ」と思ってはいけないと言うお話を聞きます。

ところがやはり「自分の苦労や努力」を誇っているかのように「やれやれ」と思ってしまいました。一体誰のための仏事であったのでしょうか。

実は今回のご法事直前はいつも以上に慌ただしいものでした。途中親戚やご門徒のお葬儀など色々突発的な事もあって、どうにも考えることやることが多かったのです。

夫婦一緒に作業をしている余裕もありませんでしたので、時間に追われるように、黙々とそれぞれができることをやっていました。

当日を迎えても、お参りの方や出仕の僧侶方が気になります。また、次第やお荘厳に不備はないか。

お下がりは、お料理は、お酒は、挨拶は。

まだまだ心は落ち着きません。

そして御斎(おとき)の席でお酒もいただき、ようやく少し落ち着いてきた頃、ふと気付かされたことがありました。

あれやこれやと用意をして大変ではあったものの、お参りの方がおられなかったら、このご法事は成立しなかったわけです。お導師や法中さん、外陣方のみなさんがご出仕くださらなくても、親類や家族の協力がなくても成り立たなかったのです。もちろん料理屋さんなどもそうです。

どなたが欠けても絶対にこのご法事は今回のように勤まることはなかったのです。

心のどこかで自分一人の大変さ、自分のやったことを手柄にして、「やれやれ」などと口をついて出る私です。

今回のご法事は、実は一人では何もできないでいる私が、「おかげさま」のど真ん中で自分の役割を勤めさせていただいただけであったと気付かされる機縁でもありました。

普段の「挨拶」では感じきる事ができていなかった「おかげさま」を、改めて実感させていただける時間でした。

本当にありがとうございました。