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念仏には無義をもって義とす。

12月 4th, 2014 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

 

念仏には無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆえにと仰せ候ひき。

歎異抄 第十章(真宗聖典630頁)

 

何にせよ、義をもつと怪しくなりがちです。

 

30代半ばで「kicomaica」という聞法と座談を目的とした会をつくりました。

ただ単に聞法したかったからです。

 

そのときに見せられた「世間の眼」はとても面白かったのを憶えています。

 

20人以上のスタッフが集まったので、「なにやらたくらんでいるのではないか」「既存の組織に対抗するつもりだ。けしからん」などと色んなものさしで、色々言われ、勘ぐられたりしました。

ついには、そのことで複数の団体に説明にも行きました。

 

しかし、聞法したかっただけなので、何を言われても、その趣旨をそのままをお伝えするだけでした。

 

また、ただ聞法したかっただけですから、会が盛況かどうかは、それほど問題になりませんでした。

参加者が多いと賑やかさを感じ、少ないと淋しさをおぼえる程度で、特に人数によって不安になったり、困ったりはしませんでした。

 

そんなわけですから、聞法できなくなるのは困りますが、会そのものの存続にはそれほど執着していませんでした。

なぜなら、一緒に聞いて語る集まりだとは思っていましたが、「集まり」そのものの形式にはこだわっていなかったからです。

 

3年経って、そろそろ誰かに代表を代ってほしいと思い、相談しました。

 

運営主体を後輩たちにゆだねたいと思ったわけです。

もちろん、協力はしますし、参加者として参加もします。

ただ、公開講座ではあるものの、20~30代の若い人たちの聞法会であり、語り場であってほしいと願いました。

 

この辺りからなにやら怪しくなりました。

 

会そのものに対する欲が出てきたわけです。

こうあってほしい。

こうなってほしい。

 

「願い」といえば聞こえはいいのですが、ある側面では、自分の思い通りにしたいという「欲望」にもなるのではないでしょうか。

 

例えば、それを人に伝えようとすると、とても忙しくなります。

誉めてみたり、説明・説得したり画策し、思議し「はからい」続ける歩みが始まります。

誰かの考えや行動をなんとかしないといけないような気になるのです。

それは世間のみならず、家庭内でもよくあることではないでしょうか。

本当の「願い」とは全くの別物です。

 

欲望と願いを混同し、「ねばならぬ」といいながら「はからい」を推進する魔法の言葉、それを「」というのではないでしょうか。

義は勇ましく魅力的ですが、やっかいです。

義というだけあって、自分にも他人にも目に見えない強制力がはたらきます。

とても窮屈な「雰囲気」です。

 

たいていの世の中のもめごとは義と義がぶつかり合うことからおこります。

私の義が視界をふさぎ、広い視野で相手の義を見ることができなくなるのです。

義は偽なり。誰も救わない。

 

どうやら我が義こそ正義だと思っているのは自分だけで、誰の為でもないようです。

 

やれやれ自分は一体、何を聞いてきたのかと思いました。

 

でもそういえば今までも、私は自分のあり様を知らされることはあっても、その経験を自分に取り込むことはできなかったはずです。

私の日頃のこころは、ややもすれば仏さんを忘れます。

そして、勝手に大義を作り出し、自分の歩みや自分の考えを誇ります。

 

照らして影をみせるのは仏さんのお仕事で、私の仕事は照らされることだけでした。

 

そんな私に多くの先人が無義の教えを伝えてくださって、本当に良かったと思います。

 

できれば仏さんを見失いたくないものです。なんまんだぶつ。

2012年6月の言葉について

6月 20th, 2012 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

Facebook上で「ことば」をお仕事になさっておいでの方から、2012年6月のことばの所感について、

「私の頭(思考)は、比較して上下、損得、善し悪しの中で非常に忙しく悩み、迷います。しかし、それに対して私の身体は思考における判断基準とは違う価値観で、ふと幸せを感じたり、嬉しくなったりする事があります。」

という所と、

 「出口の無い、苦悩のラビリンス(迷宮)に居る私たちの思考における『やるせなさ』『満たされなさ』が、今日を忘れた苦の生き様そのものなのかもしれません。ですが、それは同時に、仏道(という浄土への方向道)を歩めとの本願の促しであるともいえるのではないでしょうか。」
という所の間に何かあるのではないかとのご質問をいただきました。

 

さすが『ことば』をお仕事になさっている方です。図星です。

結びの文の前に

『私の身体は思考における判断基準とは違う価値観で、ふと幸せを感じたり、嬉しくなったりする事があります。』

とありますが、実は以前、人 (兄だった気がします) から勧めてもらった脳科学系の本を読んでいて、人間の脳を活性化させる為には脳がもつ、3つの欲求を満たしてやる事が大切だと書いてあった事が脳裏をよぎったのですが、文章が長過ぎると思ったのと、自分の中ではまだ不完全燃焼で、どの本だったのかも思い出せないので書くのをやめたのです。折角の機会ですので、無理を承知で続けます…

 

人間の脳で、満たすと活性化する3つの欲求とは、

1・生きたい
2・知りたい
3・仲間になりたい

 なんだそうです。

これを、仏教の言葉に置き換えると

 1・自ら仏に帰依したてまつる
2・自ら法に帰依したてまつる
3・自ら僧に帰依したてまつる

 さらに、日曜学校の『ちかいのことば』に置き換えると

 1・ほとけのこどもになります
2・正しいおしえをききます
3・みんな仲よくいたします

 という風になるのではないかと考えています。

 

3番目のというのは僧伽(サンガ)の事で、僧侶のみを指すものではありません。共に集い教えを聞く仲間の事であります。そして、僧に帰依するとは、その共に仏法聴聞をしていく僧伽を大切にしていく事であると聞いております。

そういう意味では、「3・仲間になりたい」に通じるのではないかと思います。

 

次に、2番目の法(正しいおしえ)について。教えと言えるものを聞くというのは、教えとして受け止めたものを聞く事です。教えとして受け止められなければ、教えとして耳を傾けませんよね。では、教えとして受け止められないものとは、何か。それは単なる人の意見ではないでしょうか。教えとして受け止められたものを聞き、そうであったか、と喜べるのであれば、それは欲求の「2・知りたい」を満たすものとして、意味が通じるのではないかと思います。

 

1番目の仏(ほとけのこどもになる)というのは、まだ私の中では不完全燃焼です。ただ、『いきいきと生きたい』という事と繋がるのではないかと思っています。

『私の頭(思考)は、比較して上下、損得、善し悪しの中で非常に忙しく悩み、迷います。』

と表現しましたが、私自身は自分を否定したり、ダメだと悲観したりする事がありますが、それでも私の身体は脈を打ち、お腹は空くし、風呂に入れば心地よいと感じ、叩けば痛いと感じます。つまり、身体そのものは素直に生きようとしてくれています。私が自分や自分の状況に失望しようとも、優越感に浸ろうとも、です。

そもそも、優越感とは、劣等感を知っているからこそ感じられるのです。また、劣等感を覚えるのも、今の自分の状態・状況が、自分の思うトコロと違うと感じ、納得できないからであって、それは、思う通りになったら感じることはないでしょう。

つまり、私が思う優劣・上下・損得の分別は、私(の思考)にとっては最重要問題ではありますが、私本来(身・いのち)にとっては、大した問題でもないのかもしれません。仏さんは摂取不捨(おさめとって捨てず)の大慈悲心で、衆生(生きとし生けるもの)を救う(拯う)とおっしゃっているのですから。

 

また、『それに対して私の身体は思考における判断基準とは違う価値観で、ふと幸せを感じたり、嬉しくなったりする事があります。』

という表現をしたのは、

 

凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず 真宗聖典P545一念多念文意

 

と言われているように、私は怒ったり、嫉妬したり、羨んだり、恐らく死ぬまで比較して忙しく悩み、優越感や劣等感を覚えて生きていくのでしょう。しかし例えば、子(孫)育てというのは損得でいえば、損な事が多いのに、辛くてもとにかく世話を焼き、その成長に無上の喜びを感じはしないでしょうか。

また、

・いがみ合っていた相手と和解出来た時

・仕方なくでも、進んででも手助けした事で『有難う』と一言いわれた時

・自分の過去の出来事を認める事ができた (過去が報われたと感じた) 時

・教えを聞いて、決して褒められも貶されもしないのに、深い内省が起き、気づけた喜びを感じる時

そういった時に、私たちは損得を超えて、何やら自然と嬉しいのではないでしょうか。

これを、

1・生きたい
2・知りたい
3・仲間になりたい

の3つが満たされた瞬間だと言うのは言い過ぎでしょうか。

つまり、そこから

出口の無い、苦悩のラビリンス(迷宮)に居る私たちの思考における『やるせなさ』『満たされなさ』が、今日を忘れた苦の生き様そのものなのかもしれません。ですが、それは同時に、仏道(という浄土への方向道)を歩めとの本願の促しであるともいえるのではないでしょうか。」

という所へと続きます。

 

これは、方向を見失ってはいないか、と言いたいのです。

先ほど子や孫という例えを出しましたが、子や孫にかける願いとは、勉強しろとか立派になれなんて思う前に、劣等感なんて感じなくていい、いきいきと生きてほしいと願ったのではありませんか。親となった人は、誰に教えられたわけでもないのに、かなりの確率で共通して思うようです。すなわちこれは、私にもかけられた願いではなかったのでしょうか。私たちは、かける願いに振り回されて、かけられた願いには振り向きもしていないのではないかと思うのです。本願という事とは質が違うのかもしれないと思うのですが、私が『やるせなさ』『満たされなさ』を感じているという事は、脳の3つの欲求が満たされていないという事だと思います。

言い換えれば、私自身の思考(優劣・上下・損得の分別)を信じ、目指している方向には根本的な救いがないという事を、この身が証明しているのだと思います。

原発

8月 4th, 2011 Posted in 徒爾綴 | no comment »

震災からはや5ヶ月が過ぎようとしています。

寒かったあの頃と、うって変わって暑い毎日を過ごしています。

先日は原発反対運動の方々に協力させていただき、署名運動をしておりました。沢山のご協力有難うございました。

しかしながら、あの政府への文章。ちょっとキツすぎて署名を集めるのに一苦労しました。

協力する、しないの話の際、一応確認させていただいたのは、

①長源寺のご門徒の中にも原発関係者がおられると言う事

②原発反対派 対 原発推進派という運動には参加しないと言う事

①は、身近にも原発で仕事をしておられる方があり、ナイーブな問題だということをお伝えしたかったわけです。

②は、原発は危ないと分かっていながらも、また反対運動をしておられる方々の存在を知りつつも、何も行動しなかった自分がいたと言う事実を無視できないと言う事です。

私は知らなかった、知ろうともしなかった、でありながら電力は享受していたわけです。

私自身の過ちでもあるのです。

自分を棚に上げて、声高に「原発反対!おかしいぞ!」とは言い辛い。

だから、

「私も、あなたも間違っていた。福島の災害から色々勉強してみたけど、どうもこれはわが子にも引き継がせたくない。ちょっと考えてみませんか。もう止めにしましょう。」

という運動のつもりでした。ですので、文章にもあった通り「超危険な原子炉を即刻停止」してほしいという願いは同じでも、表現に頷けない部分はありました。なんだか二項対立のように見えたので。

と偉そうな事をいいつつも、自分もその文章を作成された方々の運動に協力という名で便乗しているようなものなので、自分は一体どこにいて、どうしたいのか、文句があるなら自分でやれよと思うと、何も出来ていない自分がいるのでがっかりするのですが…。

ともあれ、快く署名にご協力下さった皆さん。有難うございました。

それにしても今、高光大船師の「自分で自分の始末をつけ得ないのが人間の悲しさである」という言葉が沁みる。