2月 1st, 2021 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »
生活はすべて 次の2つから成り立っている
したいけれどできない できるけどしたくない ゲーテ
「次の世代は無理ちゃうか」
仏事や地域の伝統行事などでよく耳にします。
今の所その「次の世代」は私とほぼ同世代です。
私の身の回りでは最近、コロナが1つのきっかけとなって、色んな仏事や伝統行事の見直しが行われ「もうやめよう」とか「続けられるように変えよう」とかという意見があります。
でもこれは今に始まった事ではないでしょう。
特に仏事というのはいつでも消滅の危機に晒されながら存続してきたのだろうと思います。
現に今、一生懸命に仏事に関わり仏法聴聞くださっている方も、若い頃からそうだった訳ではないとおっしゃる方が多くいらっしゃいます。
実際、仏法を聞いたり仏事を執行したりしなくても食べていくには困らないのです。仏事を執行して聴聞する事と、自分が「食えるか食えんか」という事とは関係ないので、あってもなくてもいいと考える方もいらっしゃいます。なので、お寺の役を引き受けたり、大切な方の葬儀があって初めて意識したという方も少なくはないのです。
確かに私も衣を着る生活をしていなければ、儀式のお稽古や仏法聴聞をしていたかといえば、恐らくそうではなかっただろうと思います。
以前、どこかで見てメモしておいた事なのですが、school(学校)の語源はギリシャ語のschole(暇)なのだそうです。
人を雇って労働を任せ、そのおかげでできた時間を自由な思索や討論に当てる事で、物事の本質を捉えようとするギリシャ哲学が生まれたのだとか。
仮に暇があっても好きな事をしたくなる私は、自分の都合でしか物を見る事ができておらず、偏見なく人生の本質を捉える事など到底無理です。
仏事(仏法)に教えられた普遍的な言葉で漸く生きるという事について考えたり、互いに語り合ったりする事が始まるのだと思います。
つまり仏法とは目印のない人生の道しるべです。
その道しるべをすぐに見失う私のために、朝夕の勤行やご法事などあらゆる仏事をご縁に仏法に出遇うように促す営みが伝承されたのです。
仏事によって、溢れる欲求にあくせくする日常生活から一旦立ち止り、仏法を通して生老病死する私の人生に真向かいになる時間(schole)を賜る事が肝心なのでしょう。
とは言え、私には伝統的な「形式」を守る事、変更する事の善し悪しはわかりません。
唯一言える事は「コロナでなくても変わる」という事です。今までも様々な変化はあったはずです。
ただし、やめたり変更したりする時には「次の世代」を判断理由にはせず、必ず自らが「なぜ」そして「何が」大切に伝えられてきたのかを考え、互いに確かめ合って判断する事が大切だと思います。
そして、それこそが過去と未来の方々に対して今の私たちが示す事のできる「誠意」だと言えるのではないでしょうか。
1月 1st, 2021 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »
自分の考えたとおりに生きなければならない。
そうでないと、自分が生きたとおりに考えてしまう。
ポール・ブールジェ(仏・小説家)
昨年の今頃、コロナはまだまだ海外の話でした。ところがあっと言う間に感染拡大。今や世界中どこへ行ってもコロナの心配がない場所はないでしょう。
この目に見えない小さなウイルスの影響は大きく、わずかな期間にたくさんの物事が変更を余儀なくされ、あらゆる価値観が変化しました。
仏教では「諸行無常」と教えられますが、私たちが「日常」「常識」と呼ぶ「常」と言うものがいかに常ならず不確かなものであったのかと言うことを、今ほど多くの方が実感し共有した事はないでしょう。
さて「今月のことば」は19世紀フランスの小説家ポール・ブールジェの言葉です。
これは目の前の変化よりも「今までの経験」を忘れられないでいる私の事を表しているように思います。
例えば「生きたとおりに考えてしまう」というのは、今まで迷いながら生きてきたにも関わらず、しっかりとした自分なりの考えがあると思っているのではないかという事です。
人生のあらゆる事態に揺り動かされ、不安定に流されてきただけでも「今まで経験してきた」という事が根拠となって「人生とはこういうものだ」と自分が生きた通りに考えてしまうのです。
ちなみに「自分の考えたとおりに生きなければならない」というのも同じくらい注意が必要です。
何かについて能動的にせよ受動的にせよ熟考して判断した根拠には「自己都合」が大きく影響しています。
つまり状況によってはどんな判断でもしてしまうという事です。
そんな私が何をいくら考えても、考えたこと全てが状況によって正解が変わる不確かなものになるはずです。
20代の頃に読んだ「自己啓発系」の書物は、物事でいかに損しない判断をするかを教えてくれます。
しかし、この世は諸行無常。そしてそれは世の中や身近な誰かだけではなく、私自身も例外ではないのです。
そんな中では、損得は幸・不幸の基準ではなく、むしろ世界を私と私以外とに分けて、自己都合で損得勘定に迷う事自体に苦悩や軋轢の源があるように思います。
つまり啓発すべきは損得「感情」を満たす方法でなく、苦悩を生み出す私の眼の方です。
そしてそんな私をこそ救うという阿弥陀様の法を聞く。
この両方に仏法聴聞の本質があるのではないでしょうか。
相変わらず自分の損得は気になりますが、何を大切にして生きたいのか、普遍的な変わらぬ法(教え)を聞き、その通りに生きようとするとはどういう事なのかと考え続ける。
私はこの不確かな人生において、これ以上確かな生き方はないように思います。
本年も共にお念仏申し仏法聴聞、よろしくお願いいたします。
12月 6th, 2020 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »
日ごろのこころにては、往生かなうべからず 歎異抄
コロナでおろおろしている間にもう年末です。
私の都合などお構いなしに季節は移り変わります。
日頃は「こう言うもんや、ああ言うもんや」と教えられ「これが正しい、あれはあかん」と取捨選択しながら生きていますが、全ては自分の都合と言う物差しによる世界観に他ならなかったのだと振り返っています。
私は平素、長浜別院で儀式と法座を担当させていただいています。
そんな事もあってか、儀式と仏法聴聞とは一つのものだと考えています。
聴聞とは阿弥陀様のおすくいのいわれを聞く事です。儀式を通じて教えに触れ、法座で聴聞し、その事を互いに確かめ合うのです。
そして仏法聴聞するとは、そのまま阿弥陀様の信心をいただく事なのです。信は「まこと」と読みます。信心とは信じ込む事ではなく「まことのこころ」を言うのです。阿弥陀様の「信心(まことのこころ)」をお聞かせいただく時、見えてくるのは「日頃のこころ」です。日頃のこころとは、自分の都合という物差しによる世界観で人生を生きる私の事です。
今年はあらゆる法要が規模縮小にて執行されました。
役員会でも「ごえんさん、今年だけは仕方ないで」と私をなだめるように話し合われました。
最初のうちは「大変やな。でも仕方ない」と思いましたが、準備が進むにつれ「今年はいつもより楽な日程やなぁ」という思いが沸き上がって来たのです。
何が正しくて、何が大切なのかという事とは別に「日頃のこころ」という恥ずかしい私がいつでも蠢いているのです。
常々、丁寧な儀式執行のためにお稽古をします。
しかし、どんなに正しくて素晴らしい事をしていても、日頃のこころは厄介です。積み重ねた苦労や努力、蓄えた知識を手柄にするのです。他力の教えを表現しようとする儀式をも自力の姿に変えてしまいます。
また、仏法を聞いていても同じ事をするのです。自分で聞いて理解して、確かな存在となって、しっかり歩んで行けると思っているのです。これは仏法を利用して自力で思い通りの人生を生きようとする、阿弥陀様に背く姿そのものです。
阿弥陀様の「信心(まことのこころ)」をも、自分の日頃のこころに取り込もうとするのです。
日頃のこころとは、私そのものなのです。
何をしていても離れる事はありません。
つまり、お念仏申す「私」や「行為」が「まこと」なのではないと言う事です。私自身は日常の色んな出来事に簡単に揺れ動くのです。
日々、お念仏申し儀式でお聖教に触れ、法座で聴聞する事で「信心(まことのこころ)」をいただき続けるという事は、この目印のない人生において迷いながら生きる私が、娑婆の縁尽きるまで「日頃のこころ」を知らせてくださるお浄土への道しるべ「法灯」を賜り続けるという事に他ならないのだと思います。