2024年4月 / 春季永代経のご案内

「学仏大悲心」の「学」とは、

まずそれぞれの物差しを離れて謙虚に受け入れること

いいかえると長年にわたって染込んだ常識をもって、

み教えを理解しようとしないことです。清岡隆文氏

 

どこでお見かけした言葉かは覚えていませんが、当時とても心に響いたことは覚えています。

理解しようとすることは自然なことかもしれませんが、理解しようと力むと、自分の物差しによる「解釈」に溺れることがあります。
自分が色々知っているという驕りが理解できると思わせるのです。
理解するのではなく、「そもそも気が付いていないこと」に謙虚に耳を傾けようとした時、ふと思わぬ方向から「理解させられる」ことがあり、そこに力みはなく、自然と腑に落ちるということがあるように思います。

 

例えば身近な方と死別すると、問うて応える人はもう手の届かないところに往かれたけれど、多くの方が「今になってわかったことがある」と仰います。
私にも、いただいてきたものの大きさを惜しみつつ、気が付かなかった自分を悔み悲しんだ経験はあります。私たちが何か(誰か)を理解していくというのは、本当の意味ではその対象を失った時なのかもしれません。
大切な誰かと一定の距離を与えられることで、漸く気が付くのです。それは決して自ら気付いたのではなく、一緒にいる時には身近であることが却って壁となって、理解できていなかった自分に気付かされたにすぎないのです。

 

故人に抱く感情は故人からのいただきもので、故人を縁とした法要や法座などの仏事も故人からのいただきものです。そういう意味では、全ては自発的なものではなく、授かったものばかりだったのではないかと思うのです。

 

誰かと一緒に生きることは決して安穏なことばかりではなく、日々色んな感情がおこります。大切な方でも大切に思えない日があったり、傷つけたり傷つけられたり。少しも一貫性がなく、何が飛び出すかわからない私(因)は、相手との関わりを授かって(縁)、結果的(果)に喜怒哀楽の感情が生まれているような有様です。

 

「長年にわたって染込んだ自分の常識をもって」何でも理解しようとするということは、仏法だけではなく、縁ある誰かからいただいているものも謙虚に受け入れることなど出来るはずもないでしょう。自分の都合(物差し)で良し悪しと分別して、理解できたと結論づけて、それ以上そのことと向き合わなくなるのです。それでは、大切な方のことばの本意は聞こえないまま終わることもあるでしょう。

 

幸せになりたいと願って日々頑張って生きているだけなのに、なぜか大切な誰かと壁を作るような悲しい生き方になってしまう。そんな私に「自分の物差しではかり続ける先に救いはないとどうか気付いてくれ」との呼び声が、故人を縁に営む仏事の出発点ではないかと思います。

まもなく春季永代経です。どなた様も、ぜひお参りくださいますよう、ご案内申しあげます。

◎4月21日(日)

午前9時30分勤行 法話2席

午後13時00分勤行 法話2席 いずれも本堂にて勤まります。

ご法話は 岐阜県揖斐郡 等光寺ご住職 石井 法水 師 です。

This entry was posted on 土曜日, 4月 6th, 2024 at 11:47 and is filed under 徒爾綴. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. You can skip to the end and leave a response. Pinging is currently not allowed.

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