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2018年1月/修正会のご案内

12月 31st, 2017 Posted in コトバ, 法要案内 | no comment »

あらたまの 年のはじめは祝うとも 

南無阿弥陀仏の こころわするな

蓮如上人

 

この時期、私の日頃のこころはお祝いムード一色ですが、蓮如上人は南無阿弥陀仏のこころを忘れるなと仰います。

 

学生時代にお世話になった竹中智秀先生が次のようにおっしゃっています。

「死のない生を前提とした人生設計は幻想である」

 

現代の我々の理想が生み出す快適便利なものは、無意識的に「死」は前提から除外されていることが多いように思います。

 

 

例えば最近はSNSという無料で個人のページを作れて交流できるという便利なサービスがあります。

そのお陰でお寺の様々な活動が活発になってきたのも事実ですが、ページの持ち主が亡くなってもページは存在し、さらにその方のお誕生日を祝うようにお知らせまでしてくれます。

なんとも言えない感情が起こってきます。

 

あるいは以前住んでいた街では、二人でいっぱいになるエレベーターや非常に狭い階段の建物がありました。御棺や担架で運び出される事を前提としていないという事でしょう。

 

「生」のみが私たちの前提となった時、いつまでも生きるつもりで、病んだり傷ついたり亡くなったりする事実を抱えた存在である事を忘れます。

 

それに対して昔ながらの日本家屋は生老病死を前提としているように思います。

何事かあれば、田の字に並んだ四部屋の和室が、三十畳ほどの大きな一部屋になります。

おめでたい日も、そうでない日も縁ある人々と迎え、送ることができます。

しかも、その建物自体も古くなって壊れたり傷んだらいくらでも修繕できるようになっています。

限りあるものに手をかけて、出来るだけ大切に長く付き合う事が前提となっています。

 

私の日頃のこころは我欲に浮かれたり沈んだりしますが、蓮如上人がお勧めくださっているのは、物だけでなく人に対しても、死や終わりがあるという事実を南無阿弥陀仏のこころによって知らされつつ、二度と繰り返せない日々を縁ある人と大切に生ききるという人生ではないでしょうか。

 

たとえ日常の細事に振り回され、日頃のこころに埋もれてしまうとしても、季節の節目や亡き人をご縁とした仏事の際に、共に聴聞することで同じく生老病死する人生を振り返りましょう。

2018年もどうぞよろしくお願いいたします。合掌。

 

修正会

日 時 2018年1月1日(月) 午前9時 御始

場 所 慶運山 長源寺 本堂

みなさまのお参りを、こころよりお待ちしております。  釋 卓靜

2017年12月

12月 12th, 2017 Posted in コトバ | no comment »

聞くことの難しさと大切さ…

人間の愚かさは 何事に対しても 答えを持っているということです

高橋法信

 

幼い頃から数多くの引越しを経験して来ました。やむを得ない引越しもありましたが、中には自分のやりたい事をする為に引越しをしたことも多かったように思います。

語学しかり、ボクシングしかり。僧侶になろうとしたときもそうでしたね。

 

引越しをする度に、今まで通りには行かなくても、新たにこの環境で頑張ろうという新鮮な気持ちで一杯でした。

 

しかし1ヶ月、半年と過ぎ、1年も経つと納得できない事、気に入らない事が出て来ます。

 

初めのうちは良いも悪いも無く、賜った環境の中でひとつひとつ覚えて、丁寧に考えて行くつもりでいたのにも関わらず、気が付いてみればあらゆる人や物事に対して自分の良し悪しを見定めるようになって行くのです。

 

「枠は惑に通ずる」とは藤場俊基師の言葉です。

 

覚えたり丁寧に考えたりする謙虚な気持ちを手放すのと引き換えに、良し悪しの「枠」から外れたものは認める事ができない狭さを掴んでしまいます。

 

何事にも「こういうもんや」と自分の「納得」をもって答えとするあまり、実は世の中にある多くの人や物事と出遇えなくなるという事があります。

 

人の話が聞けなくなり、自分は痛まないところから人や世間を裁き、物事を是非するようになった時、きっと多くの物事や、人の気持ちを見落としているのでしょう。

 

己の納得以外を認めないあり方は、人の話のみならず仏法でさえも、自分の納得の上でしか聞こうとしません。

 

それでもどうにか教えによって枠(惑い・身勝手な答え)を握っている自分自身の狭さを知らされる事で、ようやく聞くことや出遇うことができようになるのだと思います。

 

気付かされる度に、その傲慢さ故に何とも言えない申し訳なさを感じるのと同時に、この賜った世界が、あらゆる関係性があらためて広く豊かに見えてくるような気がするのは私だけなのでしょうか。

2017年11月

11月 16th, 2017 Posted in コトバ | no comment »

智に依りて 識に依らざるべし              親鸞聖人

 

最近、長浜では宗派の内外を問わず御遠忌を厳修されるお寺が徐々に増えつつあります。

真宗大谷派長浜教区でも2019(平成31)年5月には御遠忌が厳修されます。

そしてもちろん私たちの道場である、この長源寺でも2020(平成32)年の4月にお勤まりになります。

約50年振りです。前回は1968(昭和43)年に厳修されたそうです。

 

まだまだ時間があると思っておりましたが、「そろそろ実行委員会と具体的な計画を考えながら、準備を進めなくてはならない」という話が役員会でもありました。

 

それにしても、なんでこんなに手間もお金も時間もかかる大変なことをするのでしょう。それも約50年毎に。

年に一度の報恩講でも大変なのに。

 

今月の言葉は「智に依りて 識に依らざるべし」という親鸞聖人のお言葉です。

 

私は日頃、聞法したり、本を読んだり語り合ったりして仏さんの智慧に触れる機会をいただいておっても、気付けば教えよりも、聞いた自分の知識や経験を頼りとしてしまいます。また、無意識にそのことをもって安心しようとしたりします。

 

これって、識に依るっていうことですよね。自分の知識や教養、経験を頼りとし、手柄とする私の姿はつまり、智に依らず、識に依る姿です。

教え(智)によって気付かされた事をも経験や知識(識)という手柄にします。

 

気付く経験をしたら、経験する前よりも成長したと考えます。

辛かったことやしんどかったことなら尚更、こんなにもやってきたとばかりに頭は下がらず、上がる一方です。

経験していない純粋さを拝むよりも、小賢しい知恵者を目指す、教えと真逆の私なんですね。

 

だからこそ年に一度、日常の雑事や生業の手を止め、身を据えて聴聞させていただく事で、どうにか私の日頃のこころを確認させていただきます。

 

準備から後片付けまで大変です。日常生活・経済活動の手を止めて、手間をかけないといけません。

しかし、経験し知識を蓄えようとする癖のせいで、年に一度の報恩講にも長年の「慣れ」が生じる事があります。

 

年間で一番大きな法要・法座で教えに触れても、得手に解釈し、また日常の雑事に沈みゆく私の為に、「手を止めよ、立ち止れ」と50年に一度の盛大な御遠忌という形にしてまでお伝えくださったのだと思います。

 

そうまでしないと立ち止らない私です。

どこまでも我が能力、経験、考えを頼りとして握り締め、「せねばならぬ用事」に忙しく流転します。

 

聞いて頷いてもすぐに忘れ、日頃のこころに埋没する私の浅はかな有り様を、まるで水を蓄えることのできない籠やザルのように譬えられます。

それをうけて蓮如上人は「その籠を水に浸けよ」と仰いました。
※蓮如上人御一代記聞書 聖典871頁

 

日々流れ行く中、一旦立ち止り手間をかける事で、どうにか法水に浸からせていただき、ようやく日頃のこころを確かめることができるこのご法縁です。

あらためて、大切にお迎えしたいと思いました。