Archive for the コトバ Category

2024年1月

1月 1st, 2024 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

仲間でいる間は仲間だが 条件が変われば仲間はずれになる

 

昨年7月に輪番を拝命してからというもの、日々多くの方とお出会いする中で、法要や法座だけでなく様々な出来事を通じ、本当に色々と良い刺激をいただいています。人と人とのつながり、関わりの中に身を置かせていただくことの温かさ、しんどさ、面白さ。決して平坦ではありませんが、とても大切な場をお預かりしていると感じています。

 

院内でも、職員と日々様々なことについて話し合います。
それぞれが何を見てどう考えているのか、互いに言葉を尽くすのです。

ある時私が「仲間」という言葉を使うと、必ず「輪番さん、違いますよ。友達ですよ」という職員がいました。最初のうちは「そう?わかった」と述べ「友達」と言い換えていましたが、何回も指摘され続けているうちに、だんだんとそのことが私にとっても課題になっていきました。
本人に尋ねても「だって違うじゃないですか」とニコニコするばかりです。
「仲間作りは仲間はずれを作る」と聞いたことはありましたが、彼が「仲間」の何にひっかかっているのか釈然としませんでした。

 

10月にあるお寺でのご法話にお招きいただいた際、そこのご住職にご相談申しあげましたところ「悲しいけれど仲間には手枷足枷がはまる」そして「仲間は仲間でいる間は仲間だが、条件が変われば仲間はずれになる」とお話しくださいました。

 

「仲間」は決して悪い言葉ではありませんが、この場合は仲間でいるためにルールや空気で「顔色を窺って」繋がるのが「仲間」。互いに尊重し合う「気遣い」はあるものの、きちんと話し合うことができて、一人の人間として関わり続けることができるのが「友達」だと受け止めました。仲間は仲間でいるために足並みを揃えようと様子を窺い、自分が仲間であるかどうかを確認し続けなければなりません。しかし友達は意見や視座が違っても友達なのです。仏法僧の僧(僧伽/さんが)とはそういう関わりのことをいうのではないでしょうか。

 

互いの事情をくみ取ることも大切ですが、仏様のはたらきの中で、互いに声を掛け合って、何が本当で、何が正しいのかを共に考え歩む友達の集まりが僧伽なのです。

 

我々の生活するこの娑婆は、堪忍土(かんにんど)と呼ばれます。縁によって自分の意思とは関係なく様々なことが起き、その一つひとつを引き受けていかざるを得ないのです。気が付いたらこの条件で生まれ落ちており、どちらに向かって生きていけばいいのかわからないけれども走らざるを得ない人生において、自分の意思や信仰心だけを頼るのではなく、共に教えに導かれて友達(僧伽)に背中を押されるようにして歩む、そんな関わりを頼もしく感じます。

 

2024年も長源寺では法要や法座を多数予定しております。
皆様と一緒にお念仏申し、共に教えにわが身を聞き、語り合う時間を大切にして参りたいと思います。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

2023年11月

11月 3rd, 2023 Posted in コトバ, 徒爾綴, 法要案内 | no comment »

ご恩報謝とは、恩を返すことではなく、

ご恩を無駄にせぬことである。小山法城

 

ずいぶんと「掲示板のことば」を更新できないままでいます。

役割も環境も変わって数ヶ月が経ちますが、まだまだ毎日戸惑うことばかりで、思うより早く過ぎ去る時間の中で焦る気持ちだけが取り残されているように感じています。

 

坊守が正社員になってからは、毎日遅くまで仕事をするようになった坊守に代わって、朝食作りは私の担当でした。

昼食と夕食は坊守。いつもおいしいごはんを作ってくれます。でも外食するとなるとお肉やお寿司を好んで食べ、唐揚げやポテトサラダなども好んで注文していました。

ところが外食が多くなった最近、以前はあまり注文しなかった焼き魚を注文したり、何かの煮物を注文したりするのです。

 

「今享受しているご恩というのは失ってからしか本当にはわからない」とは九州の伊藤元氏のお言葉です。しばらくの辛抱とはいえ、今まさに家族の恩が身にしみています。

 

人生で受けるご恩というのは本当に沢山あります。
両親の恩、祖父母の恩、学校や部活動(クラブ)の先生も恩師と呼びますね。他にも地域で受けるご恩もそうですが、大抵が「先輩」からのご恩であるように思います。けれども私たちは生きる上で、子の恩、孫の恩、後輩の恩など実は先輩後輩関係なく縁ある方々のご恩を受け続けて存在しているように思います。

気がついているご恩以上に気がついていないご恩もたくさんあるはずですが、悲しいことに鈍い私は伊藤元氏のお言葉通り失ったり、離れたりするまではご縁を良縁悪縁と都合で計ってしまいがちです。特に関係性が近ければ近いほどです。

 

そんな私だからこそ「振り返る時間」がとても大切なのだと思います。

誰かを振り返っている時間は、実はその方と一緒にいる時間でもあるのです。

折に触れて振り返ることで、当時はわからなかったことに気が付き、愚かにも気が付いていなかった自分と出遇い、そんな自分と関わりを続けてくれていた「その方」と出遇い直しができるのです。

その方が今生きていらっしゃっても、お亡くなりになっていても、私たちは出会った以上、その方からの影響を受けなくなることはないのです。

改めて「ご恩」と報(しら)されることで自分の在り方に悲しみをおぼえ、賜ったご恩に報いていこうとする生活がはじまるのです。

そしてご恩に対して抱く「感謝」とは謝意を感ずると書くように、「ごめんね」と「ありがとう」が同時のものなのです。

 

今年も報恩講をご縁に参詣し、共にお念仏申し教えを聞き、悩み多き宗祖90年のご苦労を振り返り、私にまで伝え続けてくださった先達のご苦労をも振り返ることで、全てが私と無関係ではない大事な「ご恩」であったと報(しら)される。そこからご恩に報(むく)いていこうとする生活がはじまることが「ご恩を無駄にしない」ということなのだと思います。ぜひお参りください。

 

報恩講

◎11月11日(土)

13時30分 逮夜

御俗姓 大阪府堺市 光照寺 日野廣宣師

ご法話 三重県菰野町 金蔵寺 訓覇 浩師 2席

引き続き

御伝鈔 住職

お勤め

ご法話 三重県菰野町 金蔵寺 訓覇 浩師 1席

◎11月12日(日)

9時  晨朝兼日中

ご法話 三重県菰野町 金蔵寺 訓覇 浩師 1席

秋季永代経

13時30分

ご法話 三重県菰野町 金蔵寺 訓覇 浩師 1席

住職挨拶

以 上

2023年8月

8月 1st, 2023 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

遇いがたくして 今遇うことを得たり

 聞きがたくして すでに聞くことを得たり   教行信証 総序

 

数ヶ月前にご法事で伺ったお家でのことです。

そこでは仏事があると、決まって床の間に1935(昭和10)年に還浄されたお祖父様がお書きになったというお軸をお掛けになります。

普段と変わらぬお参り中の何気ない会話の中で、「おじいさんは写真が嫌いだと言って、この軸をわしやと思えと遺言されたんです」とお話しくださって、途端にお軸の見え方が変わりました。

 

そこには「極重悪人唯稱佛」と書かれていて、左上に小さく昭和乙亥(昭和10年のこと)とあり、左下に寳海院浮龜謹書とありました。

 

このお軸のエピソードをお聞きするまではあまりしっかり見ていなかったのでしょう。

途端に「寳海院浮龜」というお名前が「盲亀浮木」の譬えをおっしゃっているのではないかと思い至りました。

それは海底に住む目の見えない亀が、100年に1度浮かび上がって海上に顔を出すのですが、そのタイミングで偶然穴の空いた流木が漂ってきて、たまたま亀の頭がその穴から出るというお話です。これは私たちが人間として生まれること、そして仏法に遇うことがいかに稀かということの譬喩でお釈迦様がお話になったそうです。

 

出会っていても出会えておらず、聞いていても聞けていないのが私の常です。

このお軸にしても、以前からお見かけしているのに、その託された願いには全く気がついていなかったのです。

人のことでもお念仏の教えでも、聞いて理解しているようで、自己流の解釈で誤解し、見落としていることばかりです。

わかっているつもり、知っているつもりで自分の理解の範囲に落とし込んで、落とし込めなかった部分は気にも留めない私が、たまたまのご縁で法に遇い、気付いて(わかって)いなかった自分に出遇った時、「すまなんだなぁ極重悪人であった、気付けてよかった」と感じ、願いをかけ続けてくださる阿弥陀様の呼び声に応じてお念仏申す生活が始まるのだと思います。

 

だからこそ阿弥陀様から見た私、つまり「極重悪人」(正しいつもりなので罪深い)は阿弥陀様からの呼び声に応えて生きよ「唯稱佛」(ただ念仏を称えよ)と大きく書き示されたのだと思います。

さらに「わしやと思え」と言い遺して、お子さんやお孫さんに細かく説明なさらなかったのは、「自ら教えを聞いて確かめて、お念仏申してほしい」との呼びかけではないのかと受け止めました。

たくさんの方が私たちのところまで仏法を伝えようと阿弥陀様のお手伝いをしてくださっている事実があるのです。見ても聞いても、いつでも気が付かないのはわかっているつもりの私なのです。