Archive for the コトバ Category

2018年8月

8月 1st, 2017 Posted in コトバ | no comment »

人間は信心に立たなければ、結局金か権力に立つ以外ないのです。

訓覇信雄

 

「結局世の中は金や」と言う言葉は、割とよく耳にします。

 

確かにお金は大切です。この社会で生きていく上で、無くてはならないものです。

あればあっただけ楽でしょうが、それが全てだと認めるならば、私の人生はお金で何とかなるようなものしかない人生だと認めることになります。

 

それは同時に人も物も仕事も、お金に換算できる範囲でしか見ることができていないということと同じ意味になるのではないかと思います。

 

では、権力はどうでしょうか。

組織などをまとめたりする立場や役割は必要かもしれませんが、誤って権力を本当の力だと錯覚してしまったならば、それは大変危険なことだと思います。

周囲の人をふるいにかけて、役に立つ人間とそうでない人間を作ってしまうような事もあります。

 

そもそも権力というのは、あると認めたところに存在するのです。

権力やお金も、私たちが社会生活を営む上で価値があると信じているから、それは成り立っているのです。

 

言いかえてみれば、権力やお金を「持つ者」も「持たざる者」も、共にそのシステムを支えているということです。

 

権力の権とは仮という意味ですので、仮に世間の役割としての力を与えられたということでしょう。つまり、立場を離れたらその権力はその人から引き剥がされ、元に戻ることになります。

 

でも、「あると思った」ものが無くなったと感じるならば、それは元通りではなくマイナスにしか感じないばかりか、喪失感や不安に苛まれることもあることでしょう。

 

お金や権力など、あれば便利に世渡りができそうなものですが、それは豊かに生きると言うこととは違うのではないかと思います。

 

欲求する心は収まらず、羨む心も止まないけれど、教えを通してそれが本物ではないということに気付かされたとき、本当に求めるべき大切なことを教えられます。

 

その時初めて私の狭さを知らされると同時に、この世界が広がりをもって豊かに見えてくるという事があると思います。

2017年7月

7月 21st, 2017 Posted in コトバ | no comment »

いま光りがとどいたのではない 光りに遇わなかっただけだ

   吉岡妙子

 

相撲町・浄願寺の澤面宣了氏が「循環彷徨(じゅんかんほうこう)」という言葉を教えてくださいました。

 

人が何の目印も無い、広い砂漠のような所で真直ぐに歩くという実験があるのだそうです。

 

その実験でわかるのは、自分では真直ぐ歩いているつもりでも200mほど進むのに、5mは横にズレて行くのだそうです。

進めば進むほどズレるので、最後は元のところに戻ってくる。

つまり彷徨い循環する、だから循環彷徨というのだそうです。

 

しかもズレる方向が面白いんですね。

無意識のうちに、必ず利き手の方にズレて行くのだそうです。

右利きなら右に、左利きなら左に、悲しいかな得手にズレる。

 

得意なこと、正しいと思っていることが、なぜか却って迷いを深めるんですね。

一生懸命頑張って生きて、元のところに戻る。

「一体何やってんやろか、ワシの人生。」

なんて、こんな空しいことはないですよ、とお話くださいました。

 

みんな幸せになりたいと思って、一生懸命頑張って生きているんです。

 

でも一生懸命であればあるほど、何かがおかしいと感じると、アレがおかしいコレがおかしいと問題を他者に見出そうとします。

そうやって、自分の思いを中心にして悩むことで、却って肝心のズレている自分には全く気付かないんですね。

 

気付かないまま「大丈夫や、間違いないはずや」と、大切な人をも道連れに、私の思う正しさに邁進し、結局循環する悲しい生き方をしてしまいます。

 

その迷いを何とか抜けたいという切なる願いに応えるべく、一筋の光を灯してくださったのが釈尊であり、同じ悩みに立って、その光に出遇い続けてくださったのが親鸞聖人や我々のご先祖など、多くの先達だったのではないでしょうか。

 

自分の思いを出る事のない私は、必ず得手に、自分の思いにズレて行くのです。

 

そんな私のために、この目印の無い人生においてナンマンダブツの光が、はるか古(いにしえ)から私にまで教えとして届けられ、生きる方向が指し示し続けられていたのではないでしょうか。

 

日常の雑事の中で、すぐにその光を隅に追いやり、自分勝手な思いに埋もれて彷徨う私です。

 

いま共に念仏して聴聞し、繰り返し繰り返し出遇いなおし続けながら、この悲しい循環から解放され続ける道を歩めと呼びかけられているように思います。

2017年6月

6月 18th, 2017 Posted in コトバ | no comment »

私が生きられる土台は あくまで健康を前提とするものでしかなかった

 

先日、永代経でのご法話のご縁をいただいて伺った、福井県にあるお寺の掲示板で出遇った言葉です。

 

とてもドキッとさせられたので、帰りにもう一度確認して、それ以降何度も読み返しているのですが、全くその通りでしかない自分に気付かされます。

 

予定や約束。

期待する未来や夢見る将来。

 

すべて健康であることを前提としてしか考えていませんでした。もし健康で無くなったら、全部予定変更を余儀なくされることばかりです。

 

しかし、そんなことはすっかり忘れて、いつも私は「今・ココ」に満足できず、どうなりたいのかも曖昧なまま、「いつか・どこかで」何とかならんかと思って、将来への妄想を抱きながら、何となく方向転換を繰り返しながら生きてきました。

 

往き先もわからないままに、走らざるを得ないのが人生です。

そんな中、手当たり次第に「あれが大事、これも大事」と財産のみならず知識や経験、輝いて見えるもの全てを身の回りに揃えよう、蓄えようと、アレコレ頑張ってきたように思います。

 

そして、そうすることが当たり前で、人生では大切なことであると思い、多少の困難や他者との衝突は仕方がないと思ってきたんです。

 

そうして今まで生きてきましたが、私が世間の価値観というものさしで、これが大事、輝いていると思ってきたものは、この身が終わるときには全く間に合いません。それどころか、全て手放さなくてはならなくなるのです。

 

誇らしげに並べ立てたものを失うと気付いた時、共通の価値観を抱いた者同士でしか意味が見出せないものを求めていたと、私自身の本当の狭さや暗さに気付かされます。

 

やってきたことが無駄だとは思いませんが、それらが私の全て、つまり私の人生の「土台や支え」だとするならば、最期はとてつもない虚無感に襲われるのではないかと思います。

一体、何を頼りとしてきたのかと。

 

聞法会などで、私が生きる上で本当に支えられている「土台」は、「前提」などなくてもいい、いのちの輝きの世界なのだとお聞きしています。

 

それを聞き、共に語り、念仏申すことで阿弥陀様に向かっているようでいても、実際のところは浄土を土台だとは見ることもできず、健康や地位、名誉、経済、経験、知識、能力など前提付きの世界観に価値を見出し、土台にしようとしていたようです。

 

このように、聞いてもどうにもならん私なのは確かですが、それが阿弥陀様の救いの証拠であり、自分が支えられている土台であると気付かされた途端に、今度はまた仏法を聞かずにおれなくなる。

そんな矛盾を抱えた私であると考えさせられました。