Archive for the コトバ Category

2017年6月

6月 18th, 2017 Posted in コトバ | no comment »

私が生きられる土台は あくまで健康を前提とするものでしかなかった

 

先日、永代経でのご法話のご縁をいただいて伺った、福井県にあるお寺の掲示板で出遇った言葉です。

 

とてもドキッとさせられたので、帰りにもう一度確認して、それ以降何度も読み返しているのですが、全くその通りでしかない自分に気付かされます。

 

予定や約束。

期待する未来や夢見る将来。

 

すべて健康であることを前提としてしか考えていませんでした。もし健康で無くなったら、全部予定変更を余儀なくされることばかりです。

 

しかし、そんなことはすっかり忘れて、いつも私は「今・ココ」に満足できず、どうなりたいのかも曖昧なまま、「いつか・どこかで」何とかならんかと思って、将来への妄想を抱きながら、何となく方向転換を繰り返しながら生きてきました。

 

往き先もわからないままに、走らざるを得ないのが人生です。

そんな中、手当たり次第に「あれが大事、これも大事」と財産のみならず知識や経験、輝いて見えるもの全てを身の回りに揃えよう、蓄えようと、アレコレ頑張ってきたように思います。

 

そして、そうすることが当たり前で、人生では大切なことであると思い、多少の困難や他者との衝突は仕方がないと思ってきたんです。

 

そうして今まで生きてきましたが、私が世間の価値観というものさしで、これが大事、輝いていると思ってきたものは、この身が終わるときには全く間に合いません。それどころか、全て手放さなくてはならなくなるのです。

 

誇らしげに並べ立てたものを失うと気付いた時、共通の価値観を抱いた者同士でしか意味が見出せないものを求めていたと、私自身の本当の狭さや暗さに気付かされます。

 

やってきたことが無駄だとは思いませんが、それらが私の全て、つまり私の人生の「土台や支え」だとするならば、最期はとてつもない虚無感に襲われるのではないかと思います。

一体、何を頼りとしてきたのかと。

 

聞法会などで、私が生きる上で本当に支えられている「土台」は、「前提」などなくてもいい、いのちの輝きの世界なのだとお聞きしています。

 

それを聞き、共に語り、念仏申すことで阿弥陀様に向かっているようでいても、実際のところは浄土を土台だとは見ることもできず、健康や地位、名誉、経済、経験、知識、能力など前提付きの世界観に価値を見出し、土台にしようとしていたようです。

 

このように、聞いてもどうにもならん私なのは確かですが、それが阿弥陀様の救いの証拠であり、自分が支えられている土台であると気付かされた途端に、今度はまた仏法を聞かずにおれなくなる。

そんな矛盾を抱えた私であると考えさせられました。

2017年5月

5月 17th, 2017 Posted in コトバ | no comment »

よく聞いて しっかりする身に なろうとするのが危うい
                     上山城守『如是我聞』より

 

宗教者・警察官・教育者など高潔であることを求められる「聖職者」と呼ばれる職業の人はある程度きちんとしているイメージがあるのだそうです。

 

そして、その職業や立場にいる人の多数が、何となくその(異なる立場の方が抱く)イメージをある程度守ろうとします。

要は格好つけるんです。笑

まぁ、そうでなくてもええ風に見られたいですよね。誰しも。

 

上手くいっている間はいいのですが、ひとつ歯車がくるうと、途端に息苦しくなります。理想と現実の間で、何でもない日常がしんどくなるんです。

 

そんな時、この今月の言葉が胸に刺さります。

 

今の自分はダメだから、自分が努力して積み重ねて自分を作り上げて、何者かになって、それで自分自身を受け止め、人にも認めてもらおうとするんですね。仏法聴聞まで積み重ねに利用して。

 

それでも、阿弥陀さんはこんな自分はダメだとはおっしゃらず、そのまま来いとおっしゃいます。

 

努力できる人はできるまま。できない人もできないまま。そのままです。なんまんだぶつの救いに違いはありません。

 

このままではあかんというのは私の方です。

あの人はまだあかんというのも私の方です。

 

阿弥陀さんは摂取不捨ですが、私は取捨選択しているんです。人も自分も状況も。

 

そうして、人生を思い通りにしよう、自分の理想像を演じようというのです。しかも、そうすることこそが正義であると思うんですよね。真面目に。

 

頑張ることが間違いだとは思いませんが、正しさゆえに見誤っても気づかない危うさがあります。

その証拠に行き詰まると、人や環境のせいにして、自分の都合を汲み取らない周りを責めるんです。

 

自分の思いと違う事に腹を立てて傷つく。その気持ちはわかりますが、それってお門違いですよね。

行き詰まっているのは他でもない自分の理想像、自分の思考なんですから。問うべきは自分です。

 

明石家さんまさんは『俺は絶対落ち込まないのよ。落ち込む人っていうのは、自分のことを過大評価しすぎやねん。』とおっしゃいます。

 

自分の努力、苦労、経験、すべて手柄にして見返りを求める私の姿こそ、過大評価そのものですね。

 

ありのままになれない私が、ありのままを聞かせていただく。ただそれだけなのですが、自分の手柄を手放せない私の思いこそが、人生の行先を阻み、危うくするのだと言われているように思います。

2017年4月

4月 9th, 2017 Posted in コトバ | no comment »

「学仏大悲心」の「学」とは、

 長年に亘ってしみこんだ常識をもって

 み教えを理解しようとしないことです。清岡隆文

 

最近は何でもデータ化して安心する傾向があるように感じます。

 

そこに活字であったり、動画像などの可視化された記録があると、安心するんですよね。

 

保存できる事は良いことだと思いますが、安心するとそれ以上考えようとしなくなります。

 

またさらに、そこで見落とされるのがリテラシーの問題だと思います。
自分が見聞きしたものを100%正確に受け止めることができると錯覚するんです。

 

解ったと感じた事や手元に置いたものは、それだけで安心して考えることをやめてしまいます。

 

御経もそうではないかと思います。釈尊のお言葉を文字にされたものですが、意味はわからなくてもそのままになってはいないでしょうか。
いつでも聞ける、大丈夫だと思うことの落とし穴です。

 

声明儀式やご法話という形で何とか伝承されてきてはいるものの、釈尊や宗祖ご在世の時の、声の響きや雰囲気を通して感じられたであろう含意を受け止めることが容易でなくなったんです。

 

もちろん、その当時であっても正確に受け止めることができたかといえば、疑問が残ります。

 

それでも、それぞれの人生において「これは大事だ」と受け止めた方々が居てくださったおかげで、私にまで届いたという事実があるわけです。

 

幼い頃から身近にご本尊があり、お内仏があり、仏法を語り、念仏申す人がおられたのにもかかわらず、自ら聴聞したいと思うまでに30年近くかかった私です。

しかも、その環境に居ても、その願いや意味をキチンと受け止める事が出来ていなかった私です。

 

そんな私が、教えや情報をキチンと受け止めることができているかといえば、それは怪しいのです。

 

それでも自分が間違いないつもり、確かなつもりで生活しています。

 

しかし仏法を通して、実は非常に不確かな存在であったと再確認させていただくたびに、まるで影が光を際立たせるように真実(まこと)の存在を感じます。

 

人は聞きたいように聞き、読みたいように読み、感じたいように感じます。

 

学仏大悲心(仏教を学ぶ・仏の大悲心を学ぶ)の学とは、本当に確かなものに出遇うことで、私の強い思い込みが転じる事にあるように思います。