Archive for the 法要案内 Category

2024年 修正会のご案内

12月 24th, 2023 Posted in 法要案内 | no comment »

2024(令和6)年 1月1日 午前10時より

本堂にて一緒に正信偈をお勤めさせていただきます。

コロナ以降、久しぶりにみんなでお参りできる修正会です。

どなた様もマスク着用の上、お参りくださいますようご案内申し上げます。

*ただし喉が痛い、体調が悪いと感じたら御控えください。

2023年11月

11月 3rd, 2023 Posted in コトバ, 徒爾綴, 法要案内 | no comment »

ご恩報謝とは、恩を返すことではなく、

ご恩を無駄にせぬことである。小山法城

 

ずいぶんと「掲示板のことば」を更新できないままでいます。

役割も環境も変わって数ヶ月が経ちますが、まだまだ毎日戸惑うことばかりで、思うより早く過ぎ去る時間の中で焦る気持ちだけが取り残されているように感じています。

 

坊守が正社員になってからは、毎日遅くまで仕事をするようになった坊守に代わって、朝食作りは私の担当でした。

昼食と夕食は坊守。いつもおいしいごはんを作ってくれます。でも外食するとなるとお肉やお寿司を好んで食べ、唐揚げやポテトサラダなども好んで注文していました。

ところが外食が多くなった最近、以前はあまり注文しなかった焼き魚を注文したり、何かの煮物を注文したりするのです。

 

「今享受しているご恩というのは失ってからしか本当にはわからない」とは九州の伊藤元氏のお言葉です。しばらくの辛抱とはいえ、今まさに家族の恩が身にしみています。

 

人生で受けるご恩というのは本当に沢山あります。
両親の恩、祖父母の恩、学校や部活動(クラブ)の先生も恩師と呼びますね。他にも地域で受けるご恩もそうですが、大抵が「先輩」からのご恩であるように思います。けれども私たちは生きる上で、子の恩、孫の恩、後輩の恩など実は先輩後輩関係なく縁ある方々のご恩を受け続けて存在しているように思います。

気がついているご恩以上に気がついていないご恩もたくさんあるはずですが、悲しいことに鈍い私は伊藤元氏のお言葉通り失ったり、離れたりするまではご縁を良縁悪縁と都合で計ってしまいがちです。特に関係性が近ければ近いほどです。

 

そんな私だからこそ「振り返る時間」がとても大切なのだと思います。

誰かを振り返っている時間は、実はその方と一緒にいる時間でもあるのです。

折に触れて振り返ることで、当時はわからなかったことに気が付き、愚かにも気が付いていなかった自分と出遇い、そんな自分と関わりを続けてくれていた「その方」と出遇い直しができるのです。

その方が今生きていらっしゃっても、お亡くなりになっていても、私たちは出会った以上、その方からの影響を受けなくなることはないのです。

改めて「ご恩」と報(しら)されることで自分の在り方に悲しみをおぼえ、賜ったご恩に報いていこうとする生活がはじまるのです。

そしてご恩に対して抱く「感謝」とは謝意を感ずると書くように、「ごめんね」と「ありがとう」が同時のものなのです。

 

今年も報恩講をご縁に参詣し、共にお念仏申し教えを聞き、悩み多き宗祖90年のご苦労を振り返り、私にまで伝え続けてくださった先達のご苦労をも振り返ることで、全てが私と無関係ではない大事な「ご恩」であったと報(しら)される。そこからご恩に報(むく)いていこうとする生活がはじまることが「ご恩を無駄にしない」ということなのだと思います。ぜひお参りください。

 

報恩講

◎11月11日(土)

13時30分 逮夜

御俗姓 大阪府堺市 光照寺 日野廣宣師

ご法話 三重県菰野町 金蔵寺 訓覇 浩師 2席

引き続き

御伝鈔 住職

お勤め

ご法話 三重県菰野町 金蔵寺 訓覇 浩師 1席

◎11月12日(日)

9時  晨朝兼日中

ご法話 三重県菰野町 金蔵寺 訓覇 浩師 1席

秋季永代経

13時30分

ご法話 三重県菰野町 金蔵寺 訓覇 浩師 1席

住職挨拶

以 上

2023年4月 / 春季永代経のご案内

4月 19th, 2023 Posted in コトバ, 徒爾綴, 法要案内 | no comment »

ただ、仏法は、聴聞にきわまることなり 蓮如上人御一代記聞書193

 

人との向き合い方と、仏法との向き合い方はよく似ているように感じています。

 

先日法座のあとで数名の参加者の方々と「宗祖のお言葉にこだわる」とか「お聖教に帰る」というような話をしていた時、ふと私は本当には宗祖のお言葉にも、お聖教にもこだわってはいないのではないかと思いました。

 

聴聞という言葉があります。「聴」は聞こうとして聴くことをいい「聞」は聞こえてくることをいうのだそうです。

私は「聴聞しましょう」と言いながら、実はそのどちらでもなく「訊」という聞き方をしていたのではないかと思い至りました。

それは「訊」にたずねるという意味があるように、どれほど聴聞を続けても何か自分に合う「答え」を期待して聞いているだけではないかと思ったのです。

つまり自分の理解の枠組があって、その枠内に収まる話かそうでないかという聞き方です。

 

「分かる」は「分ける」と書きますが、自分の中にいくつかある枠組の中に、宗祖の言葉もお聖教も勝手に分類して理解したことにするのです。

 

それで「宗祖の言葉」や「お聖教」にこだわっていると言えるでしょうか。

 

自分の理解、自分の考えにこだわり、自分の分類方法に納得しているに過ぎないのです。

またそれが誰かの言葉であれば「こういうことを言いたいのだろう」と自分の解釈で分かったような気になって、本当の意味では全く通じ合えていないということもあるはずです。

 

御経は釈尊の教えに出遇ったお弟子さん方によって綴られており、「如是我聞」(私はこのように聞きました)で始まります。

しかし言葉は教えや気持ち、考えなど大切なことを表現する一つの手段ではありますが、その全てを表現することはとても難しく、表現者の中でできるだけ近いもの、正確なものを慎重に選択します。

だからこそ受け手は時代背景や当時の文化を想像したり、多くの情報を頼りに正確に理解しようとするのです。伝えられた言葉とじっくりと腰を据えて対話するように向き合うのであって、自分の枠に落とし込んで理解しようとすることとは違うのだと思います。

 

日常の対話でも同じことです。真意がわからなかったり意見が違ったりしても、目や表情そしてその言葉の背景を想像して、根気よく相手の思いが聞こえてくるまで向き合うのです。

そのことで何が見えていて、何が見えていなかったのかを知ることを通して、相手との間を隔てていた自分の枠組が揺らぎ、互いの世界観が少しだけ溶け合うのでしょう。

 

真剣に聴くというのは、自分の枠組が崩れることで聞こえてくるものを大切にするのであって、決して教えや誰かを自分の解釈の枠に落とし込んで理解したことにしてはいけないのだと思います。

経験したり学んだりするほど枠組は増え、様々な理解が進むように感じます。難しいことですが、それが却って迷いを深めることがあると忘れてはならないのでしょうね。

まもなく永代経です。どなたでもお参りいただけます。

その時に自分の中で結論が出なくても、わからなくても、聞こえてくるまで一緒に聴聞しましょう。

 

◎4月30日(日)

午前9時30分勤行 法話2席

午後13時00分勤行 法話2席 いずれも本堂にて勤まります。

ご法話は 岐阜県揖斐郡 等光寺ご住職 石井 圭 師 です。