2018年12月

「私」を出発点にしたものは、

   真実にはならない。それが仏智疑惑。   佐野明弘

 

この言葉は、長浜別院と五村別院の「しんらん講座」で佐野明弘氏が仰った言葉です。

当時、ご法話の中で思わず書き留めたのですが、最近また味わい深い言葉だとしみじみ感じておりましたので、ご紹介いたしたく掲示板の言葉にさせていただきました。

「私」を出発点にする。
実は私にはそれ以外にはないのではないかと思います。

全て私の思いを出発点にして、私の納得を着地点にするのです。
つまり、そこには普遍性も不変性もないのです。
あるのは私の都合です。
日常生活のあらゆること、全部そうです。

どんなことをしていても、誰かや何かの為であったとしても、「これで良し」と自分を善しとした上での行為です。
そして、その都度損か得か、都合が良いか悪いか、正しいか間違っているか、一つひとつ足し算と引き算をします。

私を出発点にした途端に、あらゆる事には「はからい」が混ざります。
つまり、どんなに立派な行為でも、どんなに非難されるような行為でも出発点が同じなのです。

その行為の根底には、私の「思い」こそ確かなものだとする「私信仰」があるのです。
ご本尊を阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)だと言いながら、実は最初から阿弥陀如来ではなく「私の思い(納得)・私の経験」で私を救おうとしているだけなのです。それを仏智疑惑と仰ったのです。

「私信仰」では、世の中は都合のいい人(事)悪い人(事)に二分化されてしまいます。それは仏智とは言えないでしょう。

今月のこの言葉によって、仏教徒面・善良な市民面をしながら、私は何を本尊(当にいこと)として生きているのかを見せつけられたような気がしています。

仏様の智慧に対して私の知恵は私にだけ都合の良いものを選び取る知恵です。
古来その知恵の頭には時として「悪」や「浅」が付けられます。
そうして我が身が末代無だと知らされた喜びとは、その教えが真実であり、私の思い以外に確かな真実があったと再び歩み出せる喜びであると思います。

This entry was posted on 火曜日, 12月 11th, 2018 at 22:53 and is filed under コトバ, 徒爾綴. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. You can skip to the end and leave a response. Pinging is currently not allowed.

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