2020年8月
人生は、人間が理解し認識してゆくところではなく、
理解せしめられ、認識せしめられるところである。 高光大船
私は小学生の頃から、月明かりや星空が綺麗な夜に境内へ出て眺めるのが大好きでした。
次第に宇宙のことにも関心が生まれ、学校で惑星や宇宙のことについてまとめたこともあります。
夜空を見上げる時、綺麗だと眺めたりロマンを感じたりするだけではなく「あの星が生まれた時にいた人はもういないし、今生まれた星が地球上に見える時に僕はもういない」と考える事もあり、まるで真っ暗な世界に一人ぼっちになったように感じ、なんだか怖くなった事もありました。
そのうち「人間は死んでいくのに、何のために生きているのか」と考えるようになり、時々両親に「どうして死ぬのに算数や国語を勉強しないといけないのか」と質問して「アホなこと言うてんと、はよお風呂入っておいで」と言われて肩を落として風呂に入る、少し変わった子でした。
次第に宇宙のこと以外に、語学や格闘技など、自分が夢中になれるものが見つかり、それなりに成功や挫折を繰り返しながら紆余曲折あり、今は縁あって、住職としてどうあるべきか悩みつつ教えを聞き、なんとか生活をしているのです。
私は夢中になれる何かと出会う度に、忙しく充実した人生を歩んでいるような気がしていましたが、実はそれはあの頃の問いに蓋をしていただけで、何十年経った今もきちんと答えられないでいるのです。
それは、もしかしたら「今月のことば」のように、人生を理解し認識しなければならないと考えて生きているからなのかもしれません。
「分かる」と「頷く」は違うと思います。
自分の「理解の枠組み」に落とし入れるのが「分かる」であって、自分から分類して理解した気になっている事を言い、逆に「頷く」のは「そうであったか」と驚き、理解せしめられ認識せしめられる事を言い、自分からはできない事なのです。
教えを通して、今、ここから理解せしめられ認識せしめられる所に、今までの人生のあらゆる出来事や関係性が、自分の理解とは全く違う景色で開かれてくる事があると思います。
そういう意味では日頃悩み苦しむ時にも、身近な方の死に悲しむ時にも、私は教えを聞くことの大切さを実感しているつもりです。
しかしとても残念なことに、いただいた「頷き」をも自分の「理解の枠組み」に入れようとしたり、自分の「経験(手柄)」にして、人生を分かったような気になってしまうのも私なのです。
だからこそ多くの先達が、ただ念仏し、ただ聞かせていただく道を受け伝えてくださったのだと感じています。