2021年3月

悟るといふても 迷ふていることを 悟るのである

                   安田理深

3.11あの日から10年です。当時の「空気感」を今も覚えています。

実は国内での大きな震災は初めての経験で、阪神淡路大震災当時はアメリカのコロラド州に住んでいて、学校にいく前に読んだ新聞で知りました。
公衆電話にはこんなに日本人がいたのかと思うほどの列ができ、混線のため他の国に電話がかかってしまい3度目で日本に繋がり、ようやく地元や親族の安否を確認しました。
ただ、その後は画面の中(海外)の話で、身の回りはすぐ日常に戻ってしまっていました。

そして2011年3月11日。
私は翌日に永代経を控え、役員さんと準備をしていました。
作業がひと段落して休憩している時、疲れがたまっているのかと錯覚するようなおかしな揺れを体感し、その直後ゆっくりと揺れる輪灯(仏具)を見てようやく地震があったのだと気がついたのです。

報道を見て、何をどうすべきなのか戸惑う中「ごえんさんのくせに何も発信しないのか」と注意されるなど、何かしら行動を起こさない人間は「ダメ」だというような経験した事のない「空気」に、日に日に覆われて行ったような気がします。

私は支援物資を送る窓口になったり、web上で支援のリンクをはったり、支援金を募ったりしましたが、いつの間にか「被災地には行けていない自分」に不甲斐なさを感じるようになっていました。

また各地で「支援のあり方」で対立する人がいた事も不思議でした。その全てに違和感を覚えつつ声に出す事はないまま随分経った時、先輩からいただいた本の中に次のような一文を見つけ、その違和感と向き合う事ができました。

 

『「念仏者の社会実践とは何か」という僕の疑問に対する安田先生の「聞法です」というお言葉です。

今、社会問題について色々言われます。差別問題、原発問題、環境問題、靖国神社問題、競争社会の問題など色々言われていますが、そんなのは形の話であって、要は聞法です。聞法しているかしていないかというだけの話です。

そういう問題に関わるかどうかという事は、ご縁です。因縁の問題です。

誰しもが関われるわけではない。関わりたいけれども関われないという事もある。

関わりたくないと思っても、関わらざるをえないという事もある。それは因縁の問題です。

そういう問題に関して運動することに社会実践の本質があるわけではありません。運動しようがしよまいが聞法です。』 

   『歎異抄講述・聞書』鶴田義光著

 

支援活動はできる限りした方がいいと思います。
でも誰かの助けになりたいと願いながらも、支援にまで優劣や条件をつけ、人と人とが寄り添い合えない。
そんな矛盾したものが私たちの「正しさ」や「優しさ」の正体なのでしょうか。

信心とは信(まこと)の心と書きます。対して私の心は「日頃のこころ」と教えられます。

聞法して仏様の「信心(まことのこころ)」を賜り、分け隔てない正しさや優しさを保てない私の「日頃のこころ」確かめ続ける。その歩みを忘れてしまった時、私は真っ直ぐに自分の行為や考えの「正しさ」を握りしめ、正義の境界線で人や物事を分断し、その「偏り」に気付く事すら難しくなるのでしょう。

 

 

 

This entry was posted on 日曜日, 3月 21st, 2021 at 17:47 and is filed under コトバ, 徒爾綴. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. You can skip to the end and leave a response. Pinging is currently not allowed.

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