2021年4月
我々を存在せしめている根元の力を忘れて
自分の力で生きてきたと威張っているのを罪悪深重という
先月1周忌をお迎えになったあるご門徒さんの一言から気付かされた事があります。
昨年初めに入院された際、お見舞いしてもいいのかと躊躇う私は、人づてに「会いたいそうだ」と聞き、病室を訪れました。
体調の事、一日の過ごし方、心境の変化、色んなお話をしてくださいました。
その際「今になって色々わかってきた事があるわ」と気恥ずかしそうに仰ったのですが、私は安易に共感する事もできず静かに相槌を打つに留め、それ以来ずっと胸に引っかかっていました。
先月、別院の彼岸会で笠原俊典さん(持專寺住職・チャプレン)が、宗祖の仰る「悪人」について「傲慢さ」と言えると表現してくださいました。
例えに出されたのは「安楽死(尊厳死)」です。
賛否が分かれるところですが、認めるには善意で前向きに生命を奪う法制度を整えなければなりません。
私もこの事を真剣に考えると「命を自由にしてはいけない」という思いと「目の前苦しむ方に何もできないのか」という思いの間で悩みます。
しかし笠原氏は、その思想は相模原殺傷事件の犯人の思想と通底するのだと指摘されます。
確かに身体に不自由さがあるとか、精神的に安定しないとか、病に苦しむ事は大変な事かもしれませんが、それは人の命を左右してもいい理由になるのでしょうか。
自然に「何もできないのか」と悩むのもそのはず。
私たちは幼い頃から「できる事」「得る事」こそが人生であって、それが幸せの尺度であるかのように生きてきたのです。
得る事、できる事は楽しく、幸せに感じる事であるには違いないでしょう。しかし、できる事、経験した事など「持ち物」が増える事で、却って見えなくなってきたものはないでしょうか。
できる事、得意な事、苦労などを経験し得ていく過程の中で「傲慢さ」という贅肉がつき、その全てを手柄にして握りしめ、いつの間にかその価値観で全てを裁き、我が思いに囚われ世間に不満を抱き、却って不自由になるのです。
逆に失っていく、できなくなっていく中で、賜っていたもの、していただいてきたもの、いてくださった人に改めて気付き、本当の「豊かさ」や「慈愛」に出遇い直していくという事、この事を「今になって色々わかってきた」と表現されたのではないか、と今は受け止めさせていただきつつ自分ならどうかと考え続けています。
もしかしたら、大切な方との別れをご縁に営むご法事、あるいはお寺での聞法会などの仏事は、「傲慢さ」という不自由な贅肉を知らされ、知らず知らずの内に見失っているものに目や心を向けて、日頃抱いている「不満の正体」と向き合う時間だと言えるのかもしれませんね。