如是我聞
藤場俊基先生の本を読んでいて、ふと最近のもやもやが言葉になりそうな気がしたので文字にしてみる事にしました。
何かの集まりでよく耳にする言葉に
「○○先生が仰っていたから」「○○先生から聞いた」
と、自論を肯定しようとする言い回しがある。これは、日常どこででも耳にする言葉でもある。
また、
「昔からそうやから」「みんながそうやから」
として、責任の回避をはかる言葉も広い意味では類義語でしょう。
問題をそこで終わらせる事に何か納得できない。
「お伝え」は大切ですが、その「お伝え」がどのように私自身に伝わったのか、が問題にならないのが不思議。
無責任に感じるのです。だから「なぜ?」と尋ねても答えが無い事が多い。
私は、多くの先輩方に声明儀式のお伝えを頂いている訳ですが、同じ話でも先生によって表現の仕方などが違ったり、内陣と外陣でも若干お伝えが違う事もありますので「○○先生がこう仰っていた」と言っていても、混乱してしまいます。さらに、聞き違えているという事もあり得ます。
伝えてもらったものを細かく分類して見直し、やってみて、聞いていただいて、確認する。この繰り返しの中で、論(理屈)が見えてくるのだと思います。そうする事で、初めて「お伝え」が守られていくのではないでしょうか。それが、伝えていただいた者の責任であり、今度はそのお伝えを他の方に返していく責任ではないかと思うわけです。
儀式だけではなく、聞法しても、コピーするだけではなく、自分自身にどうかえってくるのか思案して、人にも語り話し合う中で、初めて自分がお伝えを「どういただいたのか」が明らかになる歩みが始まると思います。今度はその繰り返しの中で、思い通りにならない“自分”がいただけるのかもしれませんね。
そう考えると、仏教全体の歴史と比べれば、大谷派の声明儀式の歴史の方が短いにもかかわらず、聞法する事と同じような歩みを辿れるようになっている。これは凄いと思います。先達のアツイ思いを感ぜずにはいられない。
参考にします。
何の参考にされるのかわかりませんが、とにかく参考とは恐縮です。徒然なるままに書き付けたものですので、どこまでお役に立てるかわかりませんが、今後とも宜しくお願い致します。