2011年9月

どこまでも この身の痛まぬところで 他人に同情している

 この不実さを 恥ずかしいとも思わず  浅田正作

 

今「震災」というとほとんどの方が、東北を思いおこされます。

ニュージーランドの震災に触れる方は、稀でしょう。

お身内を亡くされた方以外は、国内の方がリアルなんでしょうね。

 

東北の震災でも、「可哀想」「痛ましい」と思っても、その気持ちや、その時におこした行動は、時間と共に日々の生活に埋没していってしまいます。

また、話題に上がるのは、被災地の震災や津波の被害ではなく、原発の方が主になっているのではないでしょうか。原発の方が、わが身に火の粉が振りかかる可能性が高いですからね。

最近、奥さん方の会話をお聞きすると、食料品店なんかで、「被災地がんばろう」とか、応援セールがあっても、放射能汚染が気になって、どうしても家族に食べさせる事を思うと敬遠するという意見をよく耳にします。もちろん、被災者とて例外ではなく、被災地の農家の方が出荷制限をクリアして安堵する半面、それをわが子に食べさせる事には躊躇するという。

 

さて先日、藤場俊基師のご自坊で、

「かわいそうというのは 自分でなくて良かった という意味がある」

という言葉を目にしました。

 

これは、私の事を言い当てられている言葉ではないでしょうか。

同情するという事を否定しているわけではないと思います。ただ、人間の本質や、苦悩の種を説く仏法では、同情するという事の聞こえは悪くありませんが、どこまでも同じ所で寄り添っているという事とは違うという事を知っておいてほしいという事なのではないでしょうか。

なぜなら、私たちは、自分に火の粉が降りかかると、とたんに関われなくなるどころか、自分の事で精一杯になり、同情することもかないません。

私の思いや行動は末通らない。言葉も心も理屈に合わなくなる事がしばしば。

ただ、その中でも、自分がどう関わるのか、あるいは、どういう態度をとるのかは、個人の縁次第なんでしょうね。

遠くの話だと思えば、「大変だな。少し支援金に協力するか」

縁ある方が関われば「自分に何ができるだろう」とそわそわする。

縁が近ければ近いほど、突き動かされる。

 

普通の感情だと思います。

でも、わが身に引き当てて同情し、胸が痛むのが普通の感情であるならば、人の事より先ずわが身を案じてしまうというのもまた、普通の感情であるという矛盾を抱えているのが、人間の悲しい本質なのではないでしょうか。

This entry was posted on 土曜日, 9月 3rd, 2011 at 11:00 and is filed under コトバ, 徒爾綴. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. You can skip to the end and leave a response. Pinging is currently not allowed.

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