1月 1st, 2021 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »
自分の考えたとおりに生きなければならない。
そうでないと、自分が生きたとおりに考えてしまう。
ポール・ブールジェ(仏・小説家)
昨年の今頃、コロナはまだまだ海外の話でした。ところがあっと言う間に感染拡大。今や世界中どこへ行ってもコロナの心配がない場所はないでしょう。
この目に見えない小さなウイルスの影響は大きく、わずかな期間にたくさんの物事が変更を余儀なくされ、あらゆる価値観が変化しました。
仏教では「諸行無常」と教えられますが、私たちが「日常」「常識」と呼ぶ「常」と言うものがいかに常ならず不確かなものであったのかと言うことを、今ほど多くの方が実感し共有した事はないでしょう。
さて「今月のことば」は19世紀フランスの小説家ポール・ブールジェの言葉です。
これは目の前の変化よりも「今までの経験」を忘れられないでいる私の事を表しているように思います。
例えば「生きたとおりに考えてしまう」というのは、今まで迷いながら生きてきたにも関わらず、しっかりとした自分なりの考えがあると思っているのではないかという事です。
人生のあらゆる事態に揺り動かされ、不安定に流されてきただけでも「今まで経験してきた」という事が根拠となって「人生とはこういうものだ」と自分が生きた通りに考えてしまうのです。
ちなみに「自分の考えたとおりに生きなければならない」というのも同じくらい注意が必要です。
何かについて能動的にせよ受動的にせよ熟考して判断した根拠には「自己都合」が大きく影響しています。
つまり状況によってはどんな判断でもしてしまうという事です。
そんな私が何をいくら考えても、考えたこと全てが状況によって正解が変わる不確かなものになるはずです。
20代の頃に読んだ「自己啓発系」の書物は、物事でいかに損しない判断をするかを教えてくれます。
しかし、この世は諸行無常。そしてそれは世の中や身近な誰かだけではなく、私自身も例外ではないのです。
そんな中では、損得は幸・不幸の基準ではなく、むしろ世界を私と私以外とに分けて、自己都合で損得勘定に迷う事自体に苦悩や軋轢の源があるように思います。
つまり啓発すべきは損得「感情」を満たす方法でなく、苦悩を生み出す私の眼の方です。
そしてそんな私をこそ救うという阿弥陀様の法を聞く。
この両方に仏法聴聞の本質があるのではないでしょうか。
相変わらず自分の損得は気になりますが、何を大切にして生きたいのか、普遍的な変わらぬ法(教え)を聞き、その通りに生きようとするとはどういう事なのかと考え続ける。
私はこの不確かな人生において、これ以上確かな生き方はないように思います。
本年も共にお念仏申し仏法聴聞、よろしくお願いいたします。
12月 6th, 2020 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »
日ごろのこころにては、往生かなうべからず 歎異抄
コロナでおろおろしている間にもう年末です。
私の都合などお構いなしに季節は移り変わります。
日頃は「こう言うもんや、ああ言うもんや」と教えられ「これが正しい、あれはあかん」と取捨選択しながら生きていますが、全ては自分の都合と言う物差しによる世界観に他ならなかったのだと振り返っています。
私は平素、長浜別院で儀式と法座を担当させていただいています。
そんな事もあってか、儀式と仏法聴聞とは一つのものだと考えています。
聴聞とは阿弥陀様のおすくいのいわれを聞く事です。儀式を通じて教えに触れ、法座で聴聞し、その事を互いに確かめ合うのです。
そして仏法聴聞するとは、そのまま阿弥陀様の信心をいただく事なのです。信は「まこと」と読みます。信心とは信じ込む事ではなく「まことのこころ」を言うのです。阿弥陀様の「信心(まことのこころ)」をお聞かせいただく時、見えてくるのは「日頃のこころ」です。日頃のこころとは、自分の都合という物差しによる世界観で人生を生きる私の事です。
今年はあらゆる法要が規模縮小にて執行されました。
役員会でも「ごえんさん、今年だけは仕方ないで」と私をなだめるように話し合われました。
最初のうちは「大変やな。でも仕方ない」と思いましたが、準備が進むにつれ「今年はいつもより楽な日程やなぁ」という思いが沸き上がって来たのです。
何が正しくて、何が大切なのかという事とは別に「日頃のこころ」という恥ずかしい私がいつでも蠢いているのです。
常々、丁寧な儀式執行のためにお稽古をします。
しかし、どんなに正しくて素晴らしい事をしていても、日頃のこころは厄介です。積み重ねた苦労や努力、蓄えた知識を手柄にするのです。他力の教えを表現しようとする儀式をも自力の姿に変えてしまいます。
また、仏法を聞いていても同じ事をするのです。自分で聞いて理解して、確かな存在となって、しっかり歩んで行けると思っているのです。これは仏法を利用して自力で思い通りの人生を生きようとする、阿弥陀様に背く姿そのものです。
阿弥陀様の「信心(まことのこころ)」をも、自分の日頃のこころに取り込もうとするのです。
日頃のこころとは、私そのものなのです。
何をしていても離れる事はありません。
つまり、お念仏申す「私」や「行為」が「まこと」なのではないと言う事です。私自身は日常の色んな出来事に簡単に揺れ動くのです。
日々、お念仏申し儀式でお聖教に触れ、法座で聴聞する事で「信心(まことのこころ)」をいただき続けるという事は、この目印のない人生において迷いながら生きる私が、娑婆の縁尽きるまで「日頃のこころ」を知らせてくださるお浄土への道しるべ「法灯」を賜り続けるという事に他ならないのだと思います。
11月 29th, 2020 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »
五濁増のしるしには この世の道俗ことごとく
外儀は仏教のすがたにて 内心外道を帰敬せり 親鸞聖人(正像末和讃)
五濁が増えた証には、この世の誰もが善人のように振る舞い、仏教徒の様に装うけれども、内心は仏教以外のもの。道理より自分の思い通りになる人生を願っているという事です。
このご和讃に同意こそすれ、異を唱えるようなものが自分には見当たらないのです。ものの道理を知ったり、体裁を整えたりする事は、経験し学習する事でなんとかなるかもしれませんが、内面においては嘘をつけません。
沸き起こって来てしまう、外道をたよりとする自分がいるのです。
とても大雑把ですが「五濁」とは…
①劫濁(こうじょく)・時代の濁り。時代社会が混乱する濁り
②見濁(けんじょく)・思想やものの見方の濁り
③煩悩濁(ぼんのうじょく)・1貪欲(むさぼり・愛着)、2瞋恚(怒り)、3愚痴(道理に暗く愚か)の 三毒の煩悩が盛んになる
④衆生濁(しゅじょうじょく)・衆生の資質が低下し、教えが伝わりにくくなる
⑤命濁(みょうじょく)・生命力低下や寿命が短くなる事
…と辞書的には教わっています。
ウィズコロナの時代は混乱を極め(劫濁)、自他ともに感染しているかもしれないと疑心暗鬼な生活になります。そんな不安の中、教えよりも世間で騒がれているような多数の意見になんとなく流され(見濁)、その中でも少しでも自分の思い通りになる人生を欲しがり(貪欲)、それを損なうと感じた者には怒り(瞋恚)、思い通りにならないと四六時中愚痴まみれになる。
釈尊ご入滅から時間が経てば経つほど教えが伝わりにくくなると言われています。
それは教えを聞いても自分の思考に落とし込んで理解した気になって(見濁)、共に生きる浄土の世界観よりも、世界を自と他、内側と外側に分けて自分で自分の「濁」(障り)を生み出し、自ら生き辛さに苦悩する私自身の事を言われているのです。
そして750年以上前に今の私の姿を言い当てるご和讃をお作りくださっていたという事は、実は親鸞聖人もまた、ご自身の「濁」を教えに知らされ、真向かいになっておられたという事に他ならないのだと思います。
矛盾しているようですが、人間が「濁り」を生み出すような存在でなければ、この教えは伝わっていなかったと思います。なぜなら、阿弥陀さんはそんな濁り苦しむ私のために「必ずすくう」と誓願をたててくださった唯一の仏様だからです。
お念仏の教え(道標)を通して、行先知れぬ人生で、我が思いを叶える事ばかりを願う自分の悲しい姿を知らされた時、改めてこの道(仏道)があって良かったと本当の願いに出遇うのだと思います。