10月 31st, 2020 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »
邪道というのは 自分を固める道です
宮城 顗
お参りに伺った門徒さん宅で「たまには気楽に読めるような、もうちょっと優しい寺報書いてよ」とお願いされました。なるほど。自分の中では難しい文章を書いているつもりがなかったので、この視点はありませんでした。
また、ある寺院葬儀の際、葬儀社さんから葬儀での「気配り」についてご助言いただいた事もあります。
この時も「なるほど」と目から鱗でした。
それなりに経験を積み色々とわかる事が多くなると、その知識や経験で答え合わせをして、自分の考えに合う結論を握るという事があります。
そして、それで見えなくなっている視座があるなんてあまり考えなくなってしまう事もあります。
なんだか矛盾しているようですが、知っている事が却って知らない事を見えなくし、わかっていると思っている事が、それ以上思考する事をやめさせるのです。
人は皆、目立って個性的でなくても、個人個人違います。
男女もLGBTの方もそう。夫婦も親子も兄弟姉妹も、みんなそうです。
職業とか年齢とか国籍とか、多少似た部分はあっても、また、生まれ育った環境も違うし、内側に色んな立場を内包しているので「同じ」はないのです。
私にしても、住職、夫、父親、次男、年代、職場での役職、、、色んな視座を自分の内に抱えています。
誰しも、色んな立場を誰かから賜り、複雑に絡み合った視座で、各々自分の価値観を抱えているのです。
これは互いに聞き合わないとわかるはずがないという事です。
とは言え、目の前の人と自分との関係性によっても語る内容や表現は異なるものです。
つまり、聞いたとしても、完全にわかる事などないのです。
そういう意味では「わかった」「わかりあえた」と思ったら要注意ですね。
自分から見えた印象で相手を縛り、固めているのかもしれません。
そして、そんな時ほど相手は置き去りです。
蓮如さんは「物は言え言え。物をいわぬは恐ろしき」と仰います。
表立って物を言わんのは、何考えてるかわからん、と。
語り合う事を通して自他共に「心底もきこえ、また、人にもなおさるるなり」と仰います。
これは日頃、自分を固めていく事に余念がない私の事を仰っているのです。
そういう私は仏法を聴聞しても、どう聞いたのかを互いに語り合わないと、得手に聞いて「自分の考えを固める」ような生き方になりかねないという事です。
これは見聞きするもの全てに通じる事だと思います。
そういう意味で、今回のご助言は寺報のみならず私自身を問う機会をいただいたと、有難くいただいています。
9月 6th, 2020 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »
他の人を悪人にしなければ 自分が善人になれない
最近は間違いを犯した人や「そのように見えた人」を執拗に非難するような報道が目につきます。
また、コロナに怯えるあまり罹患者への心ない謗りはもとより、疑わしいと感じた人に抗議の張り紙をする人までいました。
それで悲しく辛い思いをする人がいたとしても、どれもこれも自分が善意の被害者になるような正義感が根底にあるので、人を傷つけていても無自覚です。
悲しい事に、実はその表出した言動は人毎に様々でも、通底しているのは勝手に責めて、その事でまた勝手に苦しむ私自身の姿でもあるのです。
先日、高橋法信さん(大阪・光德寺)とお話していて「仏教では人も自分も傷つける事を『罪』と言い、親鸞聖人はその事を『悪』という。罪深い人間だと自覚した人間を『悪人』と呼んでいるんや」と教えていただきました。
人間は、因がどうであれ目の前の「縁」が「自分にとってどう見えたか」が基準となって、果(感情・行動)が変化してしまう「我が心」に囚われ(偏見)て、全てを裁き分ける癖があります。
しかもその心は、見えた縁に意識的に反応するだけでなく、無数の縁にも無意識に影響されて変化し続けるため、身も心も先行き不透明な存在です。そして、その姿を歎異抄では「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」と教えられます。
『善とは何か、後味のよい事だ。悪とは何か、後味の悪い事だ』とはヘミングウェイの言葉です。
果からしか判断できないものだとわかっていても、忙しく変化する我が心に振り回されて、分別(善悪・好嫌)の世界を生きる人間の悲しく愚かな姿を「悪」と言われるのだと思います。
しかし仮に「ほんまやな」と「悪性」に頷いても、心のどこかに頷いていない自分がいるようです。
なぜなら、自分の悪性に「すまなんだな」と頷いた途端に「分別のある善人」とか「悪を自覚した善人」とかに早変わりするのです。
無意識の内に、気付いた自分は気付く前よりも「ましな人間」というグレーゾーンに避難してしまうのです。本当にどうしようもないですね。
何をやっていても、まことあることなし。「なんまんだぶつ」と阿弥陀さんの名を呼ぶ事以外に私がはからい(分別)を離れる事はないのです。
しかし気づけば再び、念仏する「私」や「行為」が「ましな人間」だと錯覚しがちです。だからこそ「ただ念仏のみぞまこと」(歎異抄)なのだという事を、教えを通して繰り返し確かめる営みがとても大切だと思います。
気付かされた所から、またお念仏申しつつ聞法し、日常生活の中で考え続けるという人生が、たとえ頼りない足取りであっても、私にとっては唯一の確かな歩みであるように思います。
……と「ましな人間」になったつもりで言っています。笑
8月 1st, 2020 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »
人生は、人間が理解し認識してゆくところではなく、
理解せしめられ、認識せしめられるところである。 高光大船
私は小学生の頃から、月明かりや星空が綺麗な夜に境内へ出て眺めるのが大好きでした。
次第に宇宙のことにも関心が生まれ、学校で惑星や宇宙のことについてまとめたこともあります。
夜空を見上げる時、綺麗だと眺めたりロマンを感じたりするだけではなく「あの星が生まれた時にいた人はもういないし、今生まれた星が地球上に見える時に僕はもういない」と考える事もあり、まるで真っ暗な世界に一人ぼっちになったように感じ、なんだか怖くなった事もありました。
そのうち「人間は死んでいくのに、何のために生きているのか」と考えるようになり、時々両親に「どうして死ぬのに算数や国語を勉強しないといけないのか」と質問して「アホなこと言うてんと、はよお風呂入っておいで」と言われて肩を落として風呂に入る、少し変わった子でした。
次第に宇宙のこと以外に、語学や格闘技など、自分が夢中になれるものが見つかり、それなりに成功や挫折を繰り返しながら紆余曲折あり、今は縁あって、住職としてどうあるべきか悩みつつ教えを聞き、なんとか生活をしているのです。
私は夢中になれる何かと出会う度に、忙しく充実した人生を歩んでいるような気がしていましたが、実はそれはあの頃の問いに蓋をしていただけで、何十年経った今もきちんと答えられないでいるのです。
それは、もしかしたら「今月のことば」のように、人生を理解し認識しなければならないと考えて生きているからなのかもしれません。
「分かる」と「頷く」は違うと思います。
自分の「理解の枠組み」に落とし入れるのが「分かる」であって、自分から分類して理解した気になっている事を言い、逆に「頷く」のは「そうであったか」と驚き、理解せしめられ認識せしめられる事を言い、自分からはできない事なのです。
教えを通して、今、ここから理解せしめられ認識せしめられる所に、今までの人生のあらゆる出来事や関係性が、自分の理解とは全く違う景色で開かれてくる事があると思います。
そういう意味では日頃悩み苦しむ時にも、身近な方の死に悲しむ時にも、私は教えを聞くことの大切さを実感しているつもりです。
しかしとても残念なことに、いただいた「頷き」をも自分の「理解の枠組み」に入れようとしたり、自分の「経験(手柄)」にして、人生を分かったような気になってしまうのも私なのです。
だからこそ多くの先達が、ただ念仏し、ただ聞かせていただく道を受け伝えてくださったのだと感じています。