コトバ

2018年4月/春季永代経のご案内

4月 3rd, 2018 Posted in コトバ, 徒爾綴, 法要案内 | no comment »

人は死んでも その人の影響は死なない
                マーティン・ルーサー・キング・Jr.牧師

 

昨年から今年にかけて、多くの方とのお別れが続きました。つくづく自分は一人で生きているわけではなく、関係存在だという事を実感しています。

人がお一人お亡くなりになると、景色が少し変わるような気がしています。
その人のお家、お内仏、愛用品、共に過ごした場所。
どこを見ても、もうそこにはいらっしゃらないんです。

中陰壇がある間は、その変化に気付きにくいかもしれません。
しかし、中陰壇が無くなってからお参りに伺うと、特にその空気の変化を肌で感じます。

人が一人生まれるということ。
人が一人生きるということ。
人が一人日常生活からいなくなるということ。

春は出会いと別れの季節でもあります。
引越し、転勤、死別…別れにも色々あります。

縁の遠い近いはあるにせよ、誰しも影響しあって生きているんですね。
もしかしたら、人生のあらゆる出来事は、互いに影響を与えたり、与えられたりすること以外には何も無いのかもしれません。

そのように考えてはいても、実は日常生活の中ではそんなこと全く意識していません。

「俺は癌で死ぬんやない。生まれたから死ぬんや」
とは、ある先輩のご友人が遺された言葉です。

誰しも、生きているからには、生まれたからには別れを免れることはできません。
だからこそ後悔しない人生、後悔しない出会いと別れをと願っても、何故か後悔するようなことになってしまいます。

するとそのうち後悔してしまっても、以前にお聞きした言葉、共に過ごした時間を胸に抱いて生きることはできるのだと納得しようとし始めます。しかし、私の知識や経験で乗り越えようとする限り、また同じ失敗を繰り返し続けます。

やはり、私個人の視座によって形作られた、私の思いではなく、いつでも(時代や世代を超えて)、どこでも(国や地域を越えて)、誰でも(立場や性別を問わず)が頷いて来られた生死を超える教えこそが、目印のない人生における指針となりうる真実の「教え」なのだと思います。

間も無く春季永代経です。

共に仏法を聴聞し、人生のあらゆる局面において、その仏の教えをたよりとして、一緒に考えましょう。

4月22日(日)午前10時〜 と 午後2時〜 いずれも本堂にて勤まります。

ご法話は 長浜市高月町西野 充滿寺 西野 健太郎 師 です。

どなたでもお参りいただけます。

お念珠と肩衣(お持ちであれば)を持って、是非お参りください。

2018年3月

3月 24th, 2018 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

慈悲に聖道・浄土のかわりめあり

歎異抄 第4章

滋賀医科大学で「医の倫理合同講義」というものがあるとネットニュースで知りました。

年に1度、内部の医学生と外部の宗教者が互いの役割を知って「死生観」を深め、終末期の患者さんとの向き合い方を議論するのだそうです。
講師を務められたのは鹿児島市にある浄土真宗本願寺派の善福寺住職、長倉伯博さん(64)。長らく緩和ケア病棟で活動していらっしゃるのだとか。

記事にはこうあります。

『学生からは、もし自分が担当する患者だったらどう対処するかという観点で意見を出されたが、大半が口にしたのは医療側からの希望だった。すると、患者の言いたいことをひたすら聞く「傾聴」を実践している、ある僧侶がこう諭した。「この方は自分がどうなるかを知った上で苦しんでいる。そのとき、どうしたり、どう言ったりすれば共感してもらえるだろうか」
学生に対し、表面的な言葉や態度ではなく、患者の立場や気持ちに思いを寄せるよう促したのだ。』

記事以外の具体的な講義内容はわかりませんが、その記事から感じたのは、私は私の視点でしか誰とも関われないということです。

相手の視点に立とうとすることはあっても、完全には立てないということです。

以前、住職としてご遺族に対して、何とかさせていただかなければと思い、一生懸命中陰毎にお話し続けたことがありました。

満中陰を過ぎ、その後どう過ごしていらっしゃるのか気になって色々考えていた時に、とんでもない思い違いをしている事に気付かされました。

儀式を執行している私も勿論、寂しかったのですが、帰れば家族がおります。しかし、ご遺族は私が帰った後も、大切な人が亡くなられた場所で生活していらっしゃるわけです。

私の行為が善意によるものであったとしても、何かがわかって、何かができると思っていた自分の傲慢さに胸が痛かったことを覚えています。

寄り添うということの難しさと、住職として引っ越して来たこの町で、仏法を拠り所に共に生き、共に死ぬという事を深く考えさせられました。

『医療の目的は病気を治すことよりも、人生を深く味わう機会を患者に作ることに置くべきではないか。そう考えないと、人の死に直面したとき、医療には敗北しか残らない』とは講師の長倉さんの言葉です。

一人一人、その時その時、スカッとした正解の無い人生です。
では私自身はどのように生きたいのか。共に教えに聞き、考えていきたいと思います。

 

2018年2月

2月 3rd, 2018 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

善人になるより悪人と気づくのは難しい

 勝見昭造

「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」歎異抄の悪人正機は有名な言葉ですね。

 

悪人ですら往生するんだから善人は当然往生するというならわかりますが、これはその逆です。
私もなんの事やらわけがわかりませんでした。

しかしこの「わけがわからん」のがミソでした。

 

「わからん」のは、私のいう善悪が私の都合によるから「わからん」のだそうです。
なるほど私の都合による善悪では、自分は常に善人なのです。

 

確かに悪人だなんて全く思っていないですね。
たとえ何かしてしまっても、言い訳をしてでも自分を正当化します。
しかも仮に認めて反省しても、反省する前よりも反省した私は賢く正しいつもりなのです。
当然「わけがわからん」はずですよね。

 

実は信仰においても、自分を善人にしたり認められない他者を悪人にするような問題があります。

先輩から教えてもらった、金子大栄講述『正信偈講義』という書物の一節です。

 

『信仰のある人間は、同じ信仰の人間以外、つまり信仰のない人間を人間でないやうに思ふからであります。同じ信仰を持ってゐる者だけ人間であるやうに思ふ。病気にならうが、災難がおこらうが、死ぬであらうが、信仰のない人を見れば、「あれは信仰がないから」と言ふ。どんな場合にも無信者に対しての敬愛がない。さうして動もすれば無信仰の人間などはどうなつたつていゞんだといふやうな態度をとり勝なのです』

 

宗教であれ何であれ、私の眼を頼りとしている以上、どこまでも自分の思いの範疇でしかモノを受け止められません。
結局それは強い自我意識であり、妄信と言っても差し支えないほど闇は深くなります。
世界宗教といえども、教えに触れた私自身が狭く苦しい世の中を作るのです。

これは宗教の問題ではなく、触れた人間の問題です。

 

鬼は外福は内。悪いのは他人で損は嫌い、こんでええねん。何が悪いねんと、気に入らない他者は認められず自己肯定もやまず、何とか損をしたくない私は、よもや自分で自分の世界を狭め、苦悩を生み出しているのだとは気が付きません。

 

これを無明と言い、苦作る悪人と言うのでしょう。
「無明とは確信の感覚である」とは私の先生のことばです。
確信において人は道を見失うのです。つまり、影を見失う事と光を見失う事は同義です。

 

教えに照らされ続けるべき身である事を忘れ、真実を掴んだと錯覚すると、自分こそが善であると確信し、聞く耳を失います。それは同時に、非常に深い闇へとはまり込んでいる状態であり、実は一番教え(光)を必要としている姿なのだと思います。