10月 18th, 2017 Posted in コトバ, 徒爾綴, 法要案内 | no comment »
寺があるから仏法が聴けるのではなく 仏法を聞くために寺が開かれた
兼業で共働きで忙しいのに、なぜ月に何回も法座を開いているのですか。
先日、中外日報の記者さんにそう尋ねられるまで、ちゃんと考えたこともなかったです。
とっさに「自分が聞きたいから」しか出ませんでした。
12年ほど前、私が家族と入寺させていただいた時からすでにこの慶運山 長源寺という聞法の道場はあったんです。
まさか年に数回の法要のためだけにこんな立派な本堂を建てられたわけではないでしょう。
かつては毎月法座があったともお聞きしました。
あるご法要の御斎の席で「正信偈の意味が知りたい」というご門徒さんのご要望から始まり、遠近各地の方々と聴聞させていただくようになって、早4年。
お寺離れ、宗教離れが叫ばれる昨今ですが、現に一緒に聞きたいと足を運んでくださる方々や、語ることでいただいた教えを共有したいと仰ってくださる方がいてくださいます。
そして私はそこで道場の管理人としてお手伝いをさせていただき、一緒に聞き語ることで悩んだり喜んだりしているのです。
確かに、住職家族がこれからも食べていけるかどうかなんてわかりませんし、お寺という形態が残るかどうかもわかりません。いつでも先は見えません。
しかし私は、仏法そのものは絶対に無くならないと思うのです。
今回尋ねられたことで考えてみると、仏法と、そして共に聴聞してくださる方々とに背中を押されるように促され、気付けば私自身が聞かずにおれなくなっていただけなのでしょうね。
また、そうでもしないとずぼらな私は、お掃除も仏花立てもサボってしまうような住職ですからね。笑
うまく語れないし、すぐに何かを確信して道を見失う。自分一人では何もできない。まさにお陰様のど真ん中です。有難いことです。
来月には長源寺報恩講です。是非ともお参りくださいますようご案内申しあげます。
報恩講
◎11月11日(土)
13時30分 逮夜
御俗姓 大阪 光照寺 日野廣宣 師
ご法話 京都 大行寺 佐竹英里子(英月) 師 2席
18時 初夜兼お内仏御取越し
御伝鈔 住職
ご法話 京都 大行寺 佐竹英里子(英月) 師 1席
◎11月12日(日)
7時 晨朝
朝御講(御斎をみんなでいただきます)
10時 結願日中
ご法話 米原 即徃寺 京極眞了 師 1席
秋季永代経
13時30分
ご法話 米原 即徃寺 京極眞了 師 1席
以 上
9月 4th, 2017 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »
目の前のひとを ただの人と思うなよ
高橋卯平
このことばと竹中智秀先生の「はじめに尊敬あり」ということばが、最近になってようやく私の問題になってきました。
初夏の頃、東本願寺で残業代未払いやパワハラの問題が騒がれていました。
みなさんはどうお感じになったでしょうか。
宗教者なのに?お坊さんなのに?本山なのに?
私自身も組織に勤める人間の一人です。
始めの頃は上役の声に応えようと一生懸命でした。
だんだんと立場が変わるにつれ、「どうしてこんなことができないのか」「どうして理解できないのか」と後輩たちに対して苛立ち、ひとり悩みを抱えることもありました。
そんな30代半ば頃、いつも通り聴聞した帰りにふと、先輩などの上役から教えられ育てていただくこともありますが、後輩が増えた今、実は彼らもまた私の顔色まで伺うほどに私の事を見てくれて、関わることで育ててくれているのではないかと思い到りました。
そうすると自分が正しさを握り締め、自分の考える正義を彼らに押しつけてきたように感じ、「ごめんなさい」と「ありがとう」しか出てきませんでした。
誰しも雇用契約を結んで組織に勤め始めますが、誰かに従属する為に入るわけではないのです。
チームとして互いに協力し目的を達成することが重要で、少なくともその時の私の役割は、自分の考える正しさに教え導き、矯正する事ではなかったのです。
しかしそのことに気付くと、今度は正しさを握り締めて他者を罵る誰かを「愚者」に見立て、気付いた自分自身や弱い立場の人に正義を置こうとするのです。
それはそれで立場や正しさを利用した、「 ハラスメント」です。
人は、他者を罵り見下すことで仮想的有能感に浸り、存在そのものに上下を作る時、降り場を見失い、自ら創り上げた「あるべき理想の姿」に苦悩するのです。
つまりその人を「愚者」と見る私もまた、そうなるまいと自分を縛るのです。
気付いても気付いても、自分の側に正しさを引き寄せる。気付く前と同じ構造です。
賢者の信を聞きて、愚禿が心を顕す。
賢者の信は、内は賢にして外は愚なり。
愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり。 愚禿鈔(真宗聖典423頁)
愚かにも賢者を演じる私が見抜かれています。
正しさや仏法の側に立って人を導いたり裁いたりするのではなく、仏法に教えられて人間としての共通の問題・苦悩を抱えている存在、あなたも私も共に阿弥陀様に救われていく同朋という僧伽(サンガ)に立ち返らせていただく。
仏法を通して縁ある他者に僧伽として出遇いなおすことで、ようやく私はその僧伽のおかげで仏法に導かれていく道を再発見することができるのだと思います。
8月 1st, 2017 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »
人間は信心に立たなければ、結局金か権力に立つ以外ないのです。
訓覇信雄
「結局世の中は金や」と言う言葉は、割とよく耳にします。
確かにお金は大切です。この社会で生きていく上で、無くてはならないものです。
あればあっただけ楽でしょうが、それが全てだと認めるならば、私の人生はお金で何とかなるようなものしかない人生だと認めることになります。
それは同時に人も物も仕事も、お金に換算できる範囲でしか見ることができていないということと同じ意味になるのではないかと思います。
では、権力はどうでしょうか。
組織などをまとめたりする立場や役割は必要かもしれませんが、誤って権力を本当の力だと錯覚してしまったならば、それは大変危険なことだと思います。
周囲の人をふるいにかけて、役に立つ人間とそうでない人間を作ってしまうような事もあります。
そもそも権力というのは、あると認めたところに存在するのです。
権力やお金も、私たちが社会生活を営む上で価値があると信じているから、それは成り立っているのです。
言いかえてみれば、権力やお金を「持つ者」も「持たざる者」も、共にそのシステムを支えているということです。
権力の権とは仮という意味ですので、仮に世間の役割としての力を与えられたということでしょう。つまり、立場を離れたらその権力はその人から引き剥がされ、元に戻ることになります。
でも、「あると思った」ものが無くなったと感じるならば、それは元通りではなくマイナスにしか感じないばかりか、喪失感や不安に苛まれることもあることでしょう。
お金や権力など、あれば便利に世渡りができそうなものですが、それは豊かに生きると言うこととは違うのではないかと思います。
欲求する心は収まらず、羨む心も止まないけれど、教えを通してそれが本物ではないということに気付かされたとき、本当に求めるべき大切なことを教えられます。
その時初めて私の狭さを知らされると同時に、この世界が広がりをもって豊かに見えてくるという事があると思います。