コトバ

2017年4月

4月 9th, 2017 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

「学仏大悲心」の「学」とは、

 長年に亘ってしみこんだ常識をもって

 み教えを理解しようとしないことです。清岡隆文

 

最近は何でもデータ化して安心する傾向があるように感じます。

 

そこに活字であったり、動画像などの可視化された記録があると、安心するんですよね。

 

保存できる事は良いことだと思いますが、安心するとそれ以上考えようとしなくなります。

 

またさらに、そこで見落とされるのがリテラシーの問題だと思います。
自分が見聞きしたものを100%正確に受け止めることができると錯覚するんです。

 

解ったと感じた事や手元に置いたものは、それだけで安心して考えることをやめてしまいます。

 

御経もそうではないかと思います。釈尊のお言葉を文字にされたものですが、意味はわからなくてもそのままになってはいないでしょうか。
いつでも聞ける、大丈夫だと思うことの落とし穴です。

 

声明儀式やご法話という形で何とか伝承されてきてはいるものの、釈尊や宗祖ご在世の時の、声の響きや雰囲気を通して感じられたであろう含意を受け止めることが容易でなくなったんです。

 

もちろん、その当時であっても正確に受け止めることができたかといえば、疑問が残ります。

 

それでも、それぞれの人生において「これは大事だ」と受け止めた方々が居てくださったおかげで、私にまで届いたという事実があるわけです。

 

幼い頃から身近にご本尊があり、お内仏があり、仏法を語り、念仏申す人がおられたのにもかかわらず、自ら聴聞したいと思うまでに30年近くかかった私です。

しかも、その環境に居ても、その願いや意味をキチンと受け止める事が出来ていなかった私です。

 

そんな私が、教えや情報をキチンと受け止めることができているかといえば、それは怪しいのです。

 

それでも自分が間違いないつもり、確かなつもりで生活しています。

 

しかし仏法を通して、実は非常に不確かな存在であったと再確認させていただくたびに、まるで影が光を際立たせるように真実(まこと)の存在を感じます。

 

人は聞きたいように聞き、読みたいように読み、感じたいように感じます。

 

学仏大悲心(仏教を学ぶ・仏の大悲心を学ぶ)の学とは、本当に確かなものに出遇うことで、私の強い思い込みが転じる事にあるように思います。

2017年3月 / 春季永代経のご案内

3月 9th, 2017 Posted in コトバ, 法要案内 | no comment »

死とは、死を賭して周りの者を導く、人生最後の授業 

                      藤原新也

 

今年に入ってからもまた、お浄土へとお見送りすることがありました。

 

長浜に住んで丸11年が経つと、それなりに関係性もでき、その中で生まれた思い出も少なからずあります。

 

「一生を終えて後に残るのは、我々が集めたものではなく、与えたものである」とはGérard Chaudry(ジェラール・ショドリー)というフランスの聖職者のことばだそうですが、遺された者の一人としては、しみじみとそのことを実感しています。

 

長浜では50回忌を一つの区切りとしておられます。

先月お見送りした方のお宅も、すでに皆さん50回忌を終えておられました。

 

しかし、それでも月参りをしてほしいとご依頼くださり、そのお陰で他所から来た私にも色々と思い出ができました。

 

囲碁や短歌、俳句などを教えていただきました。

それらがご縁となって、知らなかった世界観に出遇わせていただき、それまで考えたことが無かったことも考えさせていただきました。

 

それに、お参りの際に耳が遠いとおっしゃっていた会話が本堂の音響を整えるきっかけにもなりました。

色んなお話を聞かせていただきましたし、むしろ聞いていただいたことの方が多かったかもしれません。

 

また今月お見送りした方は、色んなご縁が重なって6年程前にお会いした方で、ご夫婦で会社を経営しておられました。お話をお聞きしたり社員さんと関わったりしておられるお姿から、多くの示唆を与えていただいたようなことがありました。

 

そう考えてみますと、やはり私の人生全体は、実は全て偶然のご縁の中での出来事で、私が考えて獲得したのではなく、全ては与えていただいていたことだったように思います。

私たちは複雑に絡むご縁の連鎖から生まれる果を縁として、無限に反応しあって生きているということでしょう。

 

つまり、自分が存在しているということは、他者と無縁であることができないでいるということです。

縁ある他者との別れは、与えて続けてくださったものを再確認させてくださることを通して故人と出遇いなおす縁ともなり、与えていただいたもの全てを獲得したものと錯覚し、あって(居て)当たり前だと勘違いしていた傲慢な自分とも出遇いなおすことになるのだと思います。

 

経験、苦労、知識、得たもの全てを自分の手柄にして生きる私の浅ましさに出遇いなおす。

自分の影を見せてくださったその故人はもはや、私にとって真実の姿を教えてくださった光だといってもいいのではないでしょうか。

 

この二度と戻らない最後の授業、疎かにはできませんね。

 

まもなく永代経です。

それぞれに思い出す人は違っても、その人生において一度は最後の授業を受けて来られたはずです。

 

同じ人間として、今共に生きる私たちが、慶運山長源寺という道場に集い、澤面先生のお話を通して朋なるいのちの世界に出遇いなおす道を再確認させていただきたいと思います。

是非、お参りください。

 

◎4月2日(日)午前10時~ と 午後2時~ いずれも本堂にて勤まります。

ご法話は 長浜市相撲町 淨願寺 澤面 宣了 師 です。

2017年2月

2月 2nd, 2017 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

はてさて困ったことには 知っていることは何の役にも立たず 肝心のことは何も知らない

ゲーテ「ファウスト」

 

長源寺の近くでは、間も無く二十二日講(通称回り仏さん)という御仏事がお勤まりになります。

長浜に住んで丸11年が過ぎ、もはや近所のコンビニの恵方巻よりも季節感があります。

 

遡ること230年前の1788年1月30日。

ご門首が乗如上人の時に、京都では「天明の大火」と呼ばれる大火災がありご本山が焼失してしまいました。

 

再建にあたって、湖北から大勢のお同行が出向かれ、現在も真宗本廟周辺に残る詰所に寝泊まりしつつ、昼は奉仕、夜は聴聞の日々を10年もの間送られたそうです。

 

新幹線もありません。当然ちょっと帰るということもできません。

また、再建工事の重機もありません。まさに命がけです。

故郷には家族も残していますし、相当の覚悟だったことでしょう。

 

しかし乗如上人は、着工から3年後の2月22日に寿算49歳で還浄され、その遺志は逹如上人に引き継がれました。

 

着工から10年後(1798年)に、大勢のお同行のおかげで両堂再建が果たされ、乗如上人の御影も奉掛し、落慶法要が営まれました。

 

それまで先例のなかったことだそうですが、法要が終わっても別れを惜しみ、なかなか席を立たないお同行を見た逹如上人が、2幅のご寿像と御書(ご消息・お手紙)を送られたということです。

それを機に、湖北三郡(現在の長浜市、米原市)一円で「二十二日講」が組織され、爾来200年以上、各町村のご門徒宅で法義相続の御仏事が営まれています。

 

私は回り仏さんを知りませんでしたので、始めは何が回って来はるのかと心配しておりましたが、

 

「ごえんさん。これはな、門徒の祭りや。ごえんさんはお客さんやからな」

 

とご門徒さんから教えていただきながら、お手伝いをさせていただいて来ました。

 

さて、今月のことばは、ゲーテの戯曲「ファウスト」の言葉です。

知人から聞いた言葉で、肝心の戯曲の中身は知りませんが、今のままではこの人生を終える時、こんな言葉が出てくるのだろうと思いました。

 

ふと、湖北の二十二日講が組織され、連綿と伝えられて来たことを惟うと、ひとえにこの人生の空しさを超える道を問い、聞くためではなかったかと思います。

 

「人は死ねばゴミになる」という本がありましたが、最後はゴミになる人生でいいのか、どうか仏となる道を歩んで欲しい、そして人間として生きる上で、肝心要のことを聞き開いて欲しいとの先人からの願いが伝えられているように感じます。