コトバ

2016年1月

1月 9th, 2016 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

自分の座忘れて 人の座につこうとするさけ むつかしなる

山越初枝

 

私が長浜に来たのは2005年の12月です。

早いもので、あれから10年が経ちました。

 

40年にも満たない人生ですが、自分の中では比較的濃い10年だったように感じています。

 

ここに来なければ考えもしなかっただろう物事に悩み、喜び。

ここに来なければ関わる事にもならなかっただろう人間関係に悩み、喜び。

 

振り返ってみますと、そのどれもが与えられていたことであったと思います。

 

住職になれたのはご門徒さん方のおかげです。

夫になれたのは妻のおかげです。

親になれたのは娘のおかげです。

うまれることができたのは両親やそのまた両親、先祖のおかげです。

兄弟になれたのは兄弟姉妹のおかげです。

叔父になれたのは姪たちのおかげです。

同僚上司部下の関係だってそうです。

 

職場でも地域でも家庭でもどこでも、私が私になっているのは私を私として関わってくださっているみなさんのおかげです。

そのひとつひとつを数え上げればきりがありません。

 

私が自分で存在しているつもりですが、それは全て獲得したものではなく、与えられた「座」があって、その関係性の中で偶然私としてあっただけでした。

無数のおかげ、無数の縁が私であり、どれが欠けても今の私にはなっていなかったのです。

 

そうなると、私が住職ですという言い方よりも、住職という座を私がお預かりしていると言った方が相応しいように思います。

夫という座を妻によって賜り、父親という座を娘によって賜る。

あらゆる立場を誰かによって賜っていたのではないかと思いました。

 

悲しいことも、嬉しいことも、辛いことも、苦しいことも、どれもこれも全て、たまたまの「縁」の中で与えられた、私専用の悩みであり、苦しみであり、喜びなんです。

誰とも代われません。人の座は人の座です。

とり代えても、それはまた私専用となり、想像していたものとは違うのでしょう。

 

とはいえ、俺がオレこそがとすぐに自我がかま首をもたげ、どれもこれも与えられた座であることを忘れ、自分の苦労・自分の手柄・自分自身が中心になりがちな私です。

 

自分自身が中心になると、住職という座をお預かりしている私ではなく、私が住職だと言い、私が父親だ、私が私がと座の私有化をします。

自分の座を当たり前だと感じるようになり、疎かにします。

 

与えられてきた自分の座を忘れ、人の座と比較し、羨んだり妬んだり蔑んだりするんです。
横柄になり、思い通りにいかないことに腹をたてるんです。

そうやって足元を見失い、おかげさんを忘れ、悲しみと悔しさに埋もれてしまいます。

 

そんな私ですから、この10年の歩みと、10年という節目をひとつの機縁として、与えられた座と私の終りがくるその日まで、お預かりしている座を粗末にしていないかと阿弥陀さんの教えに導かれながら、確かめ確かめ歩んでいきたいと思い、今月のことばを選びました。

 

自分の座忘れて 人の座につこうとするさけ むつかしなる

 

何かあればすぐ忘れてしまうのでしょうが、しっかり噛みしめていたいと思うことばです。

2015年2月

2月 18th, 2015 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

世間法は欲が支配し、出世間法は欲を支配する

赤沼 智善

二月と言えば、節分というのが世間の風習でしょう。

多くのご家庭で「豆まき・いわし・恵方巻き」など節分をイメージする催しが行われるのではないでしょうか。

 

クリスマスのように宗教的行事が、多くの方の意識の中で、ある種「イベント」化した姿だといえるでしょう。

豆まきなんて、きゃあきゃあ言って楽しかったですから。

 

しかし楽しいとはいえ、やっている内容は「鬼は外・福は内」。

 

そもそも追い出しているところの鬼ってなんでしょうか。

はたまた呼び込みたい福ってなんでしょうか。

 

誰でもが「福」という、歴然たる「福」とは存在しうるのでしょうか。

あるいは「鬼」と言っているそれは、誰にとっても「鬼」でしょうか。

 

よくわからないのに、人でもモノでも何にでも私たちは福と鬼とを決めています。

 

家族や回りの方々からすれば、私は福でしょうか。鬼でしょうか。

 

もし、人によって違うのなら、状況によって変わるのなら、それは単なる見た人の「都合」でしょう。

 

鬼は外、福は内。

都合の良い福。都合の悪い鬼。

 

その正体は私の「思い通りにしたい」欲でしかないのかもしれません。

その私の欲のメガネで見た世の中を世間というのかもしれません。

 

もしそうならば、善くも悪くも世間は私です。

つまり理性的であるつもりの私は、実は欲の支配下にいます。

だから世間は都合と都合がぶつかり合うのでしょう。

 

そんな私は世間法に生きています。

このまま終わる人生であるならば、暗く空しい。

その空しさを隠すために、明るくふるまう。立派にふるまう。

それでも、やはり虚しい。

中身とは違うし、何も残らない。

 

出世間法に導かれながら、本当の明るさに出遇っていく他ないようです。

念仏には無義をもって義とす。

12月 4th, 2014 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

 

念仏には無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆえにと仰せ候ひき。

歎異抄 第十章(真宗聖典630頁)

 

何にせよ、義をもつと怪しくなりがちです。

 

30代半ばで「kicomaica」という聞法と座談を目的とした会をつくりました。

ただ単に聞法したかったからです。

 

そのときに見せられた「世間の眼」はとても面白かったのを憶えています。

 

20人以上のスタッフが集まったので、「なにやらたくらんでいるのではないか」「既存の組織に対抗するつもりだ。けしからん」などと色んなものさしで、色々言われ、勘ぐられたりしました。

ついには、そのことで複数の団体に説明にも行きました。

 

しかし、聞法したかっただけなので、何を言われても、その趣旨をそのままをお伝えするだけでした。

 

また、ただ聞法したかっただけですから、会が盛況かどうかは、それほど問題になりませんでした。

参加者が多いと賑やかさを感じ、少ないと淋しさをおぼえる程度で、特に人数によって不安になったり、困ったりはしませんでした。

 

そんなわけですから、聞法できなくなるのは困りますが、会そのものの存続にはそれほど執着していませんでした。

なぜなら、一緒に聞いて語る集まりだとは思っていましたが、「集まり」そのものの形式にはこだわっていなかったからです。

 

3年経って、そろそろ誰かに代表を代ってほしいと思い、相談しました。

 

運営主体を後輩たちにゆだねたいと思ったわけです。

もちろん、協力はしますし、参加者として参加もします。

ただ、公開講座ではあるものの、20~30代の若い人たちの聞法会であり、語り場であってほしいと願いました。

 

この辺りからなにやら怪しくなりました。

 

会そのものに対する欲が出てきたわけです。

こうあってほしい。

こうなってほしい。

 

「願い」といえば聞こえはいいのですが、ある側面では、自分の思い通りにしたいという「欲望」にもなるのではないでしょうか。

 

例えば、それを人に伝えようとすると、とても忙しくなります。

誉めてみたり、説明・説得したり画策し、思議し「はからい」続ける歩みが始まります。

誰かの考えや行動をなんとかしないといけないような気になるのです。

それは世間のみならず、家庭内でもよくあることではないでしょうか。

本当の「願い」とは全くの別物です。

 

欲望と願いを混同し、「ねばならぬ」といいながら「はからい」を推進する魔法の言葉、それを「」というのではないでしょうか。

義は勇ましく魅力的ですが、やっかいです。

義というだけあって、自分にも他人にも目に見えない強制力がはたらきます。

とても窮屈な「雰囲気」です。

 

たいていの世の中のもめごとは義と義がぶつかり合うことからおこります。

私の義が視界をふさぎ、広い視野で相手の義を見ることができなくなるのです。

義は偽なり。誰も救わない。

 

どうやら我が義こそ正義だと思っているのは自分だけで、誰の為でもないようです。

 

やれやれ自分は一体、何を聞いてきたのかと思いました。

 

でもそういえば今までも、私は自分のあり様を知らされることはあっても、その経験を自分に取り込むことはできなかったはずです。

私の日頃のこころは、ややもすれば仏さんを忘れます。

そして、勝手に大義を作り出し、自分の歩みや自分の考えを誇ります。

 

照らして影をみせるのは仏さんのお仕事で、私の仕事は照らされることだけでした。

 

そんな私に多くの先人が無義の教えを伝えてくださって、本当に良かったと思います。

 

できれば仏さんを見失いたくないものです。なんまんだぶつ。