コトバ

2012年10月

10月 1st, 2012 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

道に迷うことは 道を知ることだ

スワヒリの諺

 

この言葉は、迷った時の励ましの言葉のように聞こえます。実際、私も初めはそうだと思いました。

しかし、最近あらためて、別の意味があるように聞こえてきました。

 

街の中にしても、人生にしても『道に迷う』という事は、誰しもが経験のある事です。しかし、よほどの事でもない限り、よく知っている街の中で迷うという事はありませんが、人生においては、知っている筈であるにも拘わらず、迷う事はよくあると思います。

 

これは何故でしょう。

 

藤場俊基師の著書にある『遊園地の譬喩』を引用させていただきます。

『子どもを遊園地に連れて行ってお金を渡して好きなように遊ばせるとします。ディズニーランドなら、なんでも好きなアトラクションを自由に楽しめるパスポートというのがありますね。そういうのを渡して好きなところへ行っていいよと言ったとします。そうすると、子どもは一目散に自分の行きたいところに向かって走って行くでしょう。あそこにゴンドラがある、こちらにはスペースマウンテンが見える、ここに行ったらウェスタンワールドがあるといって、見えたところに行って遊び始めます。行きたいところを決めてまっすぐに走っていく。その時には、子どもの意識では決して迷ってはいません。自分の目的地がはっきり見えているわけです。次はこっちに行きたいと、見えている目的地に向って行くわけですから、主観的にはまったく迷っている状態ではありません。ところが半日か一日放っておいたら完璧にその子は迷子になってしまいます。その時その時は、子どもには目的地が全部見えているわけですから、迷いの意識はまったくない。でもその行為の全体を通して見ると、一つひとつが全部迷いへの道をまっしぐらに進んだことになるのです。』

(『親鸞の教行信証を読み解くⅠ』 明石書店)

私たちの生き方そのものを言い当てられていると思います。

 

自分の性格は、あんなトコロもこんなトコロもあるといい、人に対しては、善し悪しの分別心で、篩(ふるい)にかけ、自分のイメージで決めつけて分類していき、自分は正しい、痛まないトコロに常に避難する。

 

また、人だけではなく、何事においても善はこちら、悪はあちらという具合に選択し、自分にとって善き (頼りになる・間に合う)ものを近づけ、悪しき(善の逆であり、邪魔)ものは遠ざける。

 

何に於いても損か得か。上か下か。勝ち組か負け組か。

 

藤場師はおっしゃいます。

 

『選ぶ理由は、選ばない理由にもなる。』

 

確かに自分で選びとってきた人生が、私で言う今、ココであり、あなたで言う今、ソコではないでしょうか。満足しているはずですよね。

 

しかし、気付けば愚痴が出て、選びとってきた選択肢に不満を言い、今度は選び捨てる。

 

後悔したり、不平不満を言ったりしてはいけないという話ではないのです。後悔したり、誰か(何か)に不平不満を言ったりしてしまう私。

これは絶対に善いモノだと頼りにしても、一過性のもので、すぐ間に合わなくなって、またさらに善いモノを探し求める。頼りにしてはいけないものを頼り、常にのどの渇きを潤したくて苦しんでいるような、そんな私の生き方を再確認してみてもいいのではないでしょうか。

 

実は私は、自分自身が迷いへの道を一直線に歩んでいるのかもしれないなどと思えないのです。

 

そこで、藤場師の『遊園地の譬喩』の続きを、もう少し引用させていただきます。

『こういう自覚がない迷いと言いますか、確信に満ちた迷い、これが無明という一番やっかいな迷い方です。その最中にはお母さんの存在も、帰り道の心配も眼中にありません。こういう状態にある時は、道を求めるなどということは起こるはずがありません。道を教えようとする親切は、よけいなお節介でしかありません。お母さんがついてきて、あれをしろ、これをするなと言えば、むしろ邪魔になるのです。

道を求めるとか、帰り道を探すというのは迷ってしまったと気付いた時から始まることです。求道を始めさせるのは迷いの自覚です。ですから迷いの自覚の中にはすでに「明かり」があるのです。明かりがさしこんでいるからこそ迷っていることが自覚される。それは有明(うみょう)です。確信に満ちている時こそ無明の中にどっぷり浸かっている時です。』

 

このように念仏の教えは、自覚なき私にすら迷い、苦しんでいる根本を自覚させようとし、人間として生きる『道』を示して下さっているのだと感じます。

 

2012年9月

9月 1st, 2012 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

解決策がわからないのではない。問題がわかっていないのだ。

G・K・チェスタートン(作家・推理作家・批評家)

 

『どうしたらいいのだろう』こう言う時大抵は『私の思うようにするには』が含まれているのではないでしょうか。

基準が自我(自分中心)なんでしょうね。自我は自分が見えません。自分の思うよう(心地良い状態)にする為に、他者(世間)を利用しようとします。

 

NPO法人『TEAM二本松』代表の佐々木道範さんはおっしゃいます。

初めのウチは、この怒り(原発事故の問題)をどこにぶつければいいのかと、その矛先を探していましたが、最近はそうではないと気付き始めました。子ども達に『お前のせいじゃないのか。お前にも責任があるんじゃないのか』と言われているような気がしています。

 

誰か(世間や他人)のせいにして、自分は迷惑を被っている善良な市民。これは私達だれでもが日常繰り返している感覚ではないでしょうか。

 

そうやって、自分の身に起こった事実までも境界線を引いて善・悪と二分化していきます。そして、必ずと言っていいほど、自分以外が悪です。

 

最近聞かせていただいた藤場俊基師のお話からも、そのように何にでも境界線を引き、簡単に答えを欲しがり、二極化し自分以外を差別していく私達のあり方をお示しくださったように感じました。

 

佐々木さんは次のようにもおっしゃいます。

福島の人間にとっては、放射能の無い世界が浄土なんです。とは言え、今のままで原発が無くなっても、別のモノが出てくると思います。学者さんでも、二極化してお互いにあの手この手で自分の意見に都合のいい情報を出しています。私はその狭間に真実があると思っています。また、福島をダシに反原発を叫ぶ人もいます。子どもから鼻血が出たら、撮影させてほしいと言い、奇形児が生まれた噂は無いかと聞きまわるジャーナリストの方も居られる。同じ反原発でも福島の悲惨さを利用されるのです。福島が可哀そうだと思わないでほしい。それは境界線を引いているのです。引いた人は、引かれた人を上から下に見ているのに他ならないのです。同じ目線で考えていただきたい。

瓦礫処理の問題でも、除染されたモノの仮置き場にしても、原発立地と同じ発想なのです。汚れて良い土地などないのです。被ばくしても良い人などいないのです。自分の近くに置きたくないモノを自分から離せば、その分誰かに近くなるのです。

根本的な生き方が問われているような気がしています。今の発想が原発を造り続けてきたのです。今のままでは同じ過ちを繰り返すのです。

 

この言葉を聞いて心が動かない人はいないのではないでしょうか。しかし日頃、私がなかなかこのような心境(思考)になれないのは、とことん自分中心のモノの見方が染みついているからなのでしょうね。水俣病や足尾銅山鉱毒事件の頃から何も変わっていないと言っている方がおられましたが、本当ですね。

 

私の所からしか見ようとせず、それでいて分かったつもりになり、私の都合を理解しない他者を悪者にし、同時にその他者との関わりを苦痛に思う。苦痛に思い、距離を置こうとする。または問題を誤魔化そうとする。しかし、また別の関わりで同じような事が起こる、そして、またその事に悩む…苦悩の連鎖です。

もしかしたら、大津のいじめの問題も、教育委員会の問題も、全てはそこから始まっているのではないでしょうか。そしてまた、ニュースを見た私達は『悪い奴だ』と自分の事を棚に上げて、決して耳に心地良くもない言葉をならべる。

清廉潔白で善良な市民であるはずの私達は、一体何をやってるんでしょうね。

親兄弟、子や孫とその生き様を共有できますか?

2012年8月

8月 21st, 2012 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

私は如来救済のお手本にはなれないが、如来救済の見本にはなれる

高光大船

これは『高光大船の世界』の冒頭から引用したものです。

  本山の住職修習を受けた時に、総代さんと新住職が向かい合って抱負を語るという機会がありました。皆さん立派な抱負をお持ちでした。

私も自分なりに立派な住職像が無いわけではなかったのですが、理想と現実との乖離を感じてしまい、どうにもしっくりこなくて何を話せばいいのかまとまらず、思わず『私は“住職”としてどうあるべきかわからないし、何ができるか自信もありません。でも、敢えて抱負らしい事を言えば、周りの誰よりも聴聞したいです。そして周囲の方が仏法を喜んでいる自分に巻き込まれてくれはったら嬉しいです。』というような事を言ったのを覚えています。変な汗を一杯かいてしまい、恐る恐る総代さんの方に目をやると、いつも通りただニコニコとして聞いておられ、小声で一言『そんでええのや』とおっしゃったのが印象的でした。

その数ヵ月後、今月の言葉に出遇い、とても嬉しくなったのを覚えています。

 私が如来救済のお手本であるならば、ご門徒さんには私に倣っていただく必要があります。しかし、私は如来救済の見本なのです。不適切な言い方かもしれませんが、いわばsampleです。

 周囲の方に『寺に参って下さい』『お念仏申しましょう』『法事を勤めましょう』等々本来するべき事、真宗門徒としてあるべき姿を伝える事も大切だとは思いますが、先ずもって私が救われる身となっていく事が要(かなめ)であると受け止めました。自分が何も感じていない事を人には勧められないのではないかと思います。実際、そこからしか何も始まらないのではないかとも思っています。

  私がはからってどうにかできる質のモノなどたかが知れているのだと思いますし、見方を変えればどうにもなっていない場合もある。またはからうあまり、仏法から離れて行ってしまい、自分中心の我欲にまみれ、人も自分も傷つけてしまう事はよくあります。自分自身が思うようにならないのに、他人の思考・信仰をどうにかしようなどというのは思い上がりかもしれないと思うのです。もちろん、一緒に念仏してほしいし、聴聞してほしいのは本音です。でも、押し付けがましくなりたくないのです。

 私は住職ですが、夫であり父親でもあります。また社会人として、色んな顔・立場・繋がりの中に居ます。そんな中、あらゆる関わりの中でひとりの人間として、念仏者として泥臭く歩む私を、私のままに生き切って死んでいく事が大切ではないかと思います。

  …などと言うと聞こえは良さそうなのですが、そうすることで、はからずも同じく念仏をしてくださる方が出てきて下さるのかもしれないと、またはからっているのです。

 やはり、どこまでいっても真実は私の方ではなく、阿弥陀さん(法)の方にあるのだとつくづく思わされます。

 そういう意味で、いよいよこの言葉が単なる立派なご住職(僧侶)の啓発的なそれではなく、高光大船師の歩みの先に実感として感じられた言葉であったのだと思います。