コトバ

2021年7月

7月 22nd, 2021 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

経教はこれを喩うるに鏡の如し

しばしば読み しばしば尋ぬれば 智慧を開発す 善導大師

 

この鏡は毎朝見る鏡とは違い、自分の内面、つまり表立って見えない姿を知らせる鏡として教えられます。

 

この寺報を始めるにあたり、多くの方からご助言を賜りました。役員さん方からは「毎月やなくてええ、無理せんでええよ」とお気遣いいただき、本当は不定期発行という事にしています。

また、ある先輩住職からは「自分のこと書きや」そして「続けなあかんで」と教えられました。

 

寺報を書くとなると、いつも「何を書こうか」と考え続ける事は避けられません。ご法話の聞き方も、それこそ「ネタ探し」のようになってしまいます。

ただ所謂「ネタ」と違うところは先輩の言葉通り、他人事ではなく「自分はどうか」にこだわります。

 

そうすると、いざ聞いた教えを活字にしようとすると、どうしても聖職などと呼ぶには程遠い情けない自分しか出てこないのです。

「自分もそうだよ」と共感してくださる方もありますが、「僕は反省してますってか」と茶化された事もあります。

でも「自分はどうか」と教えに聞くと、自分でも見えていない、仏様や教えに背を向けるような、どうしようもない自分と向き合わされるのです。

 

解学と行学という言葉があります。

 

解学とは文字通り勉強して理解する学びを指します。行学はそれを我が身に行ずる事です。

これは仏教に限らず、何事においても大切なことだと思います。

できるできないに関わらず、理解しようと学んだり、その身に行じようとしないと見えてこないことがあるのだと思います。

 

近年、教えや儀式が伝わりにくくなったと言われます。

確かにお念仏や、その教えにしても儀式にしても「わかる・わからない」とか「できる・できない」とかと自分の理解力や能力をたよりにするとなかなか伝わらないのかもしれません。

学び、理解する事も大切ですが、やはり先ずは行ずる事を疎かにしてはいけないのでしょう。

 

よく仏法聴聞と儀式は車両の両輪に喩えられ、どちらも大切だと教えられます。

でも、それは行ずる身において感じ、語られたのであって、概念として語られた言葉ではないのだと思います。

 

思えば先輩の「自分のこと書きや」は「経教は鏡の如し」、そして「続けなあかんで」は「しばしば読みしばしば尋ねる」であって、「あなた自身を教えに聞き続けなさいよ」という事を仰ったのではないかと振り返っています。

 

「わかる・わからない」「できる・できない」と今の自分だけを基準にして選ぶことなく、すでにあるこの道をたよりに、それぞれの人生でお念仏申し、自ら教えを聞き儀式を執行し、考え続けて生きる事が、先達から伝えられた「経教に尋ね」ていくことになるのではないかと考えています。

 

2021年6月

6月 21st, 2021 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

よしあしの文字をもしらぬひとはみな

       まことの心なりけるを

善悪の字しりがおは

     おおそらごとのかたちなり 親鸞聖人「正像末和讃」

 

「四十にして惑わず」と言いますが、宗祖が晩年に詠まれたこのご和讃に「迷いの身を忘れて、ものを知った顔をしているだけだ」と言われているように感じます。

 

「惑」と「迷」は違うと教わりました。

何か自分なりの「答え(確信)」があって迷いを忘れている状態を「惑う」といい、逆に答えがわからなくて不安な状態を「迷う」というのだそうです。

 

例えば就職・転職、あるいは引っ越しなどで環境が変わったりすると、色んな事がわからなくて「これでいいのかな」「これでよかったのかな」と迷います。
新鮮な日々ではあるのですが落ち着かない。そんな経験、ありませんか。

 

ところが色んな事を知って覚えて、環境にも慣れてくると、今度は見出した答え・手に入れた考え方に囚われて「あれじゃダメ」「もっとこうすべきだ」と、答えに合わないと思った人や物事に戸惑い苛立つのです。
これを「惑う」というのでしょう。

 

それは教えを聞く時も同じではないでしょうか。

「わからない」「難しい」と迷いながら聞き続けている内に「ああ、そうか」と頷き「ありがたい」と頭が下がるような事があります。
その経験は「教えに出遇った」と思わせるほど感動的です。

 

その経験が心揺さぶるものであればあるほど「出遇った」という思いは強く、自分の聞いた事こそが「仏法」であると思い込み、何を聞いてもそれに合うかどうかで聞いてしまうのです。

 

自分の聞く力は不問にしたまま、一旦持ち帰って考える事もせず、頷きたい事に頷き、頷けない事は否定する事を繰り返し、自分の掴んだ「答え」を補強するような聞き方をしてしまうのです。

 

「教えを聞いたら迷わなくなるんじゃない。聞いたら聞いた迷い方をするんだよ」
とは藤場俊基師の言葉です。

 

教えを聞こうが経験しようが学ぼうが、何をしていても「迷」か「惑」。
聞く耳をもつ「迷」の方がまだましだと言えるのかもしれませんが、文字通り迷惑な人生を生きるのです。

 

聴聞して「ああ、そうやなぁ」と頷く自分に納得し、その「答え」に胡坐をかいている事にすら気がつかないでいるのです。
「迷い」の身と知らされても、頷いた答えを掴んで勝手に「惑う」、そんな「答え」によって再び世の中に分断を生み出す悲しい生き方になってしまうのです。

 

「教えを聞く」とは、その迷惑な身を知らされ続ける事で、異なる答えや納得できない状況に行き詰まる人生に、繰り返し見失った道を賜り続ける事だと言えるのかもしれませんね。

2021年5月

5月 21st, 2021 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

赤表紙と新聞の間に身をおく 安田理深

 

明治から昭和にかけて活躍された、曽我量深(1875-1971)という先生と、安田理深(1900-1982)という先生がおられます。

「今月のことば」は、安田理深氏が「赤表紙と新聞の間に生きられた」と曽我量深氏の生き様を表現されたのが元の言葉なのだそうです。

 

赤表紙とは真宗聖典(お聖教・仏法)を、新聞とは世間(社会)を象徴しておられます。

それは、教えを通して身の回りの問題を考えたり、あるいは人生の諸問題への自身の判断の根拠を教えに確かめていく生活をいうのでしょう。

私はこの言葉で「身をおく」のが「赤表紙」とも「新聞」ともいわず、その「に身をおく」とおっしゃる所にとても深い意味があるように感じました。

 

例えば仏法を聴聞する時には、その深い意味や願いを理解しようとか、納得したいと思って聴聞します。
ところが「なるほど」と納得した途端に「赤表紙」の側に身をおこうとしたり、そうでなければ「仏法では娑婆はやっていけない」とか「お寺参りどころではない」とかと「新聞」の側に身をおこうとしたりする事があります。

とは言え、実際に今身がある場所は世間(新聞)なのであって、事実ここ以外にはないのです。

 

では「世の中そんなもんや」と居直って、流転する世間に納得したり諦めたりしながら一生を終えるのがいいのでしょうか。

それとも仏法(赤表紙)を聞き自分で納得できるところを掴み、流転する世間を傍目に、その納得した世界観だけに生きる事がいいのでしょうか。

 

私は「間に身をおく」とは「こういうもんや」と居直ったり、自分の納得した答えに居座る事ではないのだと思います。

 

「赤表紙(仏法)」とは、私と同じく生老病死に苦悩した多くの先達が、お釈迦様のお言葉をたよりに生き抜かれた中で見出された事であり、それを後世の私たちに言葉にしてまで伝えてくださった普遍的な「真理」をいうのでしょう。

また、それに対して「新聞」とは、次々に様々な出来事が起こり、時代や状況によって物差し(判断基準)が変化し続ける私を含む世間全体をいうのだと思います。

生きている以上、私達は世間を離れる事はできません。しかし、その中で変化し続ける物差しを、仏様の物差し(お念仏の教え)に問い、考え続けようとする生き方を「間に身をおく」と表現されたのだと思います。