2021年6月
よしあしの文字をもしらぬひとはみな
まことの心なりけるを
善悪の字しりがおは
おおそらごとのかたちなり 親鸞聖人「正像末和讃」
「四十にして惑わず」と言いますが、宗祖が晩年に詠まれたこのご和讃に「迷いの身を忘れて、ものを知った顔をしているだけだ」と言われているように感じます。
「惑」と「迷」は違うと教わりました。
何か自分なりの「答え(確信)」があって迷いを忘れている状態を「惑う」といい、逆に答えがわからなくて不安な状態を「迷う」というのだそうです。
例えば就職・転職、あるいは引っ越しなどで環境が変わったりすると、色んな事がわからなくて「これでいいのかな」「これでよかったのかな」と迷います。
新鮮な日々ではあるのですが落ち着かない。そんな経験、ありませんか。
ところが色んな事を知って覚えて、環境にも慣れてくると、今度は見出した答え・手に入れた考え方に囚われて「あれじゃダメ」「もっとこうすべきだ」と、答えに合わないと思った人や物事に戸惑い苛立つのです。
これを「惑う」というのでしょう。
それは教えを聞く時も同じではないでしょうか。
「わからない」「難しい」と迷いながら聞き続けている内に「ああ、そうか」と頷き「ありがたい」と頭が下がるような事があります。
その経験は「教えに出遇った」と思わせるほど感動的です。
その経験が心揺さぶるものであればあるほど「出遇った」という思いは強く、自分の聞いた事こそが「仏法」であると思い込み、何を聞いてもそれに合うかどうかで聞いてしまうのです。
自分の聞く力は不問にしたまま、一旦持ち帰って考える事もせず、頷きたい事に頷き、頷けない事は否定する事を繰り返し、自分の掴んだ「答え」を補強するような聞き方をしてしまうのです。
「教えを聞いたら迷わなくなるんじゃない。聞いたら聞いた迷い方をするんだよ」
とは藤場俊基師の言葉です。
教えを聞こうが経験しようが学ぼうが、何をしていても「迷」か「惑」。
聞く耳をもつ「迷」の方がまだましだと言えるのかもしれませんが、文字通り迷惑な人生を生きるのです。
聴聞して「ああ、そうやなぁ」と頷く自分に納得し、その「答え」に胡坐をかいている事にすら気がつかないでいるのです。
「迷い」の身と知らされても、頷いた答えを掴んで勝手に「惑う」、そんな「答え」によって再び世の中に分断を生み出す悲しい生き方になってしまうのです。
「教えを聞く」とは、その迷惑な身を知らされ続ける事で、異なる答えや納得できない状況に行き詰まる人生に、繰り返し見失った道を賜り続ける事だと言えるのかもしれませんね。