法要案内

平成24年 春季永代経並びに瑞華院釋尼恵香 7回忌法要

3月 30th, 2012 Posted in 法要案内 | no comment »

春陽の候 皆様におかれましては、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。

 さて唐突ですが、2月上旬に追突事故に巻き込まれました。骨に異常はなかったのですが、頚椎の並びが悪くなったようで、典型的な鞭打ちだそうです。

 なかなか治療に行く間が無いのですが、診察はほぼ無く、すぐに電気治療か牽引ですから、さほど時間もかかりませんし、とにかく首から腰にかけて重くて鈍く痛いのが辛いので、何とか行ける範囲で通っているような状態です。

 周囲の方々には1年~2年は通わなければならないと言われ、保険屋さんには3ヶ月で打ち切りだと言われ困惑していた中、先日診察を受けつつ、今後の治療の件で色んな方の意見を参考に相談をしましたら、どうも先生の常識からすれば的外れな相談であったようで、ナンセンスだと言われ、さらに頚椎捻挫は診ても分からない、骨の角度も事故以前のものかもしれないと言われ、挙句、それでも積極的な治療をするかと、当然の事を聞かれ、何だか非常に腹立たしかったのですが、ふと我が身を振り返るきっかけになりました。

 医師も住職も専門職。ご門徒さんが丁寧に相談にお越しになるのは、仏事がよくわからないという思いからなのでしょうか。しかし、私たちは、その相談が例え的外れであったり、自分の常識とかけ離れたりしていたとしても、相手が何を望んでいるのか、自分に何ができるのか、と寄り添う事しかできないのだと感じました。なぜなら、私の専門内の事を理解せよ、と胸を張り、意地を張るのは、私の常識を相手に押し付けているのであって、私のものさしに合う人はいい人、そうでない人はよくない人として、人を人として見ていないという事でしょう。

 私達はすぐに、そういう生き方になります。仕事でなくても、何でも自分の常識で、損得、善悪、正誤の二分化でもって人を量ります。自分の思い込みからスタートし、相手が居ながら、相手と向き合うのではなく、相手が自分のものさしに合うか合わないかで見てしまう。一呼吸おいて考え、寄り添うという事が出来にくい。

 生前、先代の惠美子(瑞華院釋尼恵香)が言わんとした事が、自分の手の届かない所に逝ってしまってから気付かされた、あの頃と同じ生き方をしてしまっています。そんな私ですが、参詣のご門徒さん方と共に、わが身を問うお念佛の教えにたずねていき、今一度、先代の遺志を頂きなおしたいと思います。

 つきましては、下記の通り厳修致しますので、ご参詣賜りますよう、ここにご案内申し上げます。

             合 掌

            記

◇春季永代経法要

日 時  平成廿四年四月七日(土)

午前十時 御始   法話 二席

午後二時 御始   法話 二席

法話講師 京都教区 正蓮寺 平原晃宗 師

◇瑞華院釋尼恵香 七回忌法要

日 時  平成廿四年四月八日(日)

午前十時 御始 

御文法話 三重教区 善明寺 長崎 直 師

 平成廿四年三月

            慶運山 長源寺住職  釋 卓 静

平成23年 報恩講並びに秋季永代経

9月 9th, 2011 Posted in 法要案内 | one comment »

 新涼のみぎり、ご門徒の皆様におかれましては、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。また、平素は当院護持に、格別のご理解とご協力を賜り、厚く御礼申し上げます。

 さて、今年は長源寺宗祖親鸞聖人七五〇回御遠忌の準備委員会が発足いたしました。今こそ改めて、何の為にこの寺が建立されたのか、御先祖は、後世の我々に何を願って真宗門徒になられたのか、また、次の世代に何をどう受け継ぐのか、を問い直す事が肝要ではないでしょうか。それは自分が何を中心として生きているのかが、明らかになる問いでもあるでしょう。お金でしょうか、地位や名誉でしょうか、それもいいでしょう。ただ、それらが崩れ去ったら、何を頼りとして生きていくのでしょう。

 最近、安心・安全・安定が今まで以上に求められています。宗教や自己啓発セミナーでの「不動心」が求められます。しかし、生まれてからこの方、変わりつつある私たちに不動なるものなどあるはずもなく、また流動的な世界情勢に不動で居られるものなのでしょうか。以前にもご紹介致しましたが、平野修先生のお言葉で次のようなものがあります。

「100%安心しようとする心が、そのままで不安を生み出します。100%安心しようとする心が不安の種を探し出してしまうのです」

 先日、石川県の藤場俊基先生のお話から、不安の種は私の持つが、今なら原発事故や震災、不況をとして、不安というが出ているのだとお聞きしました。ご先祖は、縁あらば不安になり、怒り、悲しむ私たちの有様を問う道場としてお寺を建立なさったのではないでしょうか。いつの(時代を超えて)、どこの(国も超えて)、誰もが(立場や性別を超えて)「そうだ」と頷き続けてこられた、不変で、普遍なるモノが高橋先生のおっしゃる「まことのこころ」であり、真実とよべる事ではないでしょうか。自分の思い、お金や地位や名誉、その他移りゆくモノを中心とするのは揺れ動く動揺の人生です。そういう物を自分の中心に据えるのではなく、まことの教えを中心に据え、無常のわが身を揺れ動いて生きて行く人生こそ、同じ揺れでも、立脚地のある、根を張った人生だと思います。

 どうか、諸事ご多端の折、後生の一大事と心にかけて、万障御繰り合わせの上、ご参詣くださいますよう、ご案内申し上げます。 

    合掌

 

        

日 時 平成廿三年十月十五日(土)~十六日(日)

報恩講 十五日 結願逮夜 午後ニ時   御 初 夜  午後六時半

       十六日 結願晨朝 午前七時      結願日中 午前十時

永代経 十六日            午後一時半

 

御法話 大阪市生野区 光德寺御住職        高 橋 法 信 師

以 上

慶運山 長源寺 住職 釋 卓静

平成23年 春季永代経法要

3月 2nd, 2011 Posted in 法要案内 | no comment »

 春陽の候 皆様におかれましては、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。

 日差しが温かい日も増えつつあり、1月にあったサッカーのアジア大会の興奮もどこへやら…。

 先月末、そのサッカーのアジア大会の祝賀会が都内で行われました。

 応援すると一体感を感じ、自国の選手が活躍すると自己を投影し、嬉しく感じる。さらに普段は愛国心など微塵も口にしないのに、何だか自国に誇りを持ち始め、他国に優越感を覚える。しかし負けると、犯人探しをし、作戦にものを言い、自分は監督気取りです。

 これは良い悪いとか正しい間違っているとかではなく、視座の問題だとは言えないでしょうか。

 日頃話している内容も、世間が正しいと思えば自分はその世間の一員であるとして胸を張り、その逆では、自分は世間とは別の次元でものを見ているかの如く語り、常にフラフラと痛まない所に避難します。最近ですと、景気が良ければ我が手柄とし、不景気だと不景気のせいにする。

 どうも私達は、自分の感情・感覚と異なるものを、自分とは関係の無い別物だ、と見てしまう癖があるようです。

 昔は良かった、あいつは変わった…と言っている私も日々変わっているのです。

 まもなく長源寺・春季永代経法要です。私以外のあり方を問う私ですが、参詣のご門徒さん方と共に、わが身を問うお念佛の教えにたずねていきたいと思います。

3月13日 午前10時~ と  午後2時~ いずれも本堂にて勤まります。

ご法話は 長浜市宮司町 満立寺御住職 黒田 真 師 です。