2016年11月
11月 3rd, 2016 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »念仏には 無義をもって義とす
不可称不可説不可思議のゆえにと仰せ候ひき
歎異抄 第十章
義を立てないことは非常に難しいことです。
先日、とある方のお悩みを聞かせていただきました。
どうやら人間関係のようです。
必ず違う視座での「義」があり、100%どちらかが悪いということも、100%どちらかが正しいということもないのではないかとお話しました。
するとその方は「やはり自分の正しさばかりではいけないんですね」とおっしゃいました。
そのとき同時に、どうあっても自分に義を立てる傾向が私自身にもあることに気付かされました。
たとえば家庭内でも意見が異なるとき、私が正しくて、誰かが間違っているという視座が自然に生まれます。
それではいけないと気付き、皆が良くなるようにと考えても、やはりその「皆の為に」と考えた私はまた正しいのです。
正しくない私などどこにもいないのです。
仮に何かで間違っていたと気付かされても、気付いた私はすでに正しいのです。必らず自分に義を立てます。
業縁次第ではどうにでもなってしまうのに、理性や知性で何でも解決できると思っている証拠です。
理性や知性は大切ですが、人や物事を善悪正誤で二分化し、必ず排除される(居場所を奪われる)存在を生みだす副作用があります。
そんなつもりはなくても、無自覚なまま自分に義を立て、結果的に誰かの居場所を奪い、そのことで自分の立場が保証されると錯覚する厄介な癖があるのです。
「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、空言戯言、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。」(歎異抄)
そう教えていただいても、我が義によって善悪を論じ、常に自分に義を立て続ける私だからこそ、この言葉をお伝えくださったのではないかといただいています。