2019年12月 / 修正会のご案内
人は何かになってたすかるのでは無い
自分自身に戻ってたすかるのだ 高橋法信
別院の「しんらん講座」で高橋法信さんがおっしゃったことばです。
この言葉を聞いた時、私が滋賀県長浜市に来て間も無い頃にかけていただいた言葉を思い出しました。
「ごえんさんも他所から来て、色々大変やな。でもな、坊守さんはもっと大変なんやで」
「ごえんさんは男やから女の気持ちはわからんで」
当時私は苗字も住所も職場も立場も変わり、早くこの生活に慣れなければならない、早く「住職」にならなければと焦り、苦悩していました。
しかし、思えば坊守はもっと苦しかったはずです。
なぜなら、私にはお寺で育った幼少期の経験があるからです。
ですので、正しいかどうかは別として、おそらく無意識の内にイメージできる僧侶像や坊守像があったと思います。
しかし、坊守は身近に縁のあるお寺があったわけでもなく、またお寺で育った訳でもない中、ある日を境に「坊守さん」なのです。
「私、どうしていたらいいのかわからない」と言う彼女に「こうしていればいいと思うよ」なんて自分の思う答えを彼女に語っても全て上滑りしてしまいました。
自分がどうしていたらいいのかわからないと言う事は、居場所がわからないと言う事です。
あの頃の苦しみは、家にいても誰といても孤独で、自分が自分でいてはいけないような不安だったのです。
つまり、彼女が理想的な何かになる事が彼女のすくいではなかったという事です。
何もしてあげられない無力さに、私自身も苦しかった事をよく覚えています。
何もできないと知り、最後に言えた一言は「ごめん、僕にもわからん。一緒に聞法しよう」でした。
「坊守さんはもっと大変なんやで」
「男やから女の気持ちはわからんで」
この言葉をいただいていなかったら、「わからん」という事すらわからなかったのです。
無明とは確信の感覚であると教えられます。
「わかっている」と思い込む事で、その問題は自分の中では解決できるものとして扱われます。
その事がどれほど身近な方を傷つけ、悲しませていたとしても。
無自覚とは恐ろしいものです。
自身の無明の闇を知らされなければ、自分も人も苦しめる悲しい生き方をしてしまうのです。
周囲の人や教えに気付かされる度に私は自分自身に立ち返り、漸く身近な方と向き合う用意が整うのだと思います。
それでも日常の慌ただしさの中で、人生を思い通りにしたくて、自分も人も変えようと足元を見失私うです。
そんな私だからこそ、気付かせ続けてくださる方々(僧伽・諸仏)と共にお念仏申し、呼びかけ続けてくださる阿弥陀様の教え(法)に導かれて歩む道こそが、人間として生きる上で唯一無二の道なのだと感じています。
まもなく修正会がお勤まりになります。
新年にあたり、あらためて仏前から始まる生活を確認させていただきたいと思います。
2020(令和2)年 1月1日 午前9時より
本堂にて一緒に正信偈をお勤めさせていただきます。
どなた様もお誘いあわせの上、お参り下さいますようご案内申し上げます。
釋 卓靜