2017年6月
私が生きられる土台は あくまで健康を前提とするものでしかなかった
先日、永代経でのご法話のご縁をいただいて伺った、福井県にあるお寺の掲示板で出遇った言葉です。
とてもドキッとさせられたので、帰りにもう一度確認して、それ以降何度も読み返しているのですが、全くその通りでしかない自分に気付かされます。
予定や約束。
期待する未来や夢見る将来。
すべて健康であることを前提としてしか考えていませんでした。もし健康で無くなったら、全部予定変更を余儀なくされることばかりです。
しかし、そんなことはすっかり忘れて、いつも私は「今・ココ」に満足できず、どうなりたいのかも曖昧なまま、「いつか・どこかで」何とかならんかと思って、将来への妄想を抱きながら、何となく方向転換を繰り返しながら生きてきました。
往き先もわからないままに、走らざるを得ないのが人生です。
そんな中、手当たり次第に「あれが大事、これも大事」と財産のみならず知識や経験、輝いて見えるもの全てを身の回りに揃えよう、蓄えようと、アレコレ頑張ってきたように思います。
そして、そうすることが当たり前で、人生では大切なことであると思い、多少の困難や他者との衝突は仕方がないと思ってきたんです。
そうして今まで生きてきましたが、私が世間の価値観というものさしで、これが大事、輝いていると思ってきたものは、この身が終わるときには全く間に合いません。それどころか、全て手放さなくてはならなくなるのです。
誇らしげに並べ立てたものを失うと気付いた時、共通の価値観を抱いた者同士でしか意味が見出せないものを求めていたと、私自身の本当の狭さや暗さに気付かされます。
やってきたことが無駄だとは思いませんが、それらが私の全て、つまり私の人生の「土台や支え」だとするならば、最期はとてつもない虚無感に襲われるのではないかと思います。
一体、何を頼りとしてきたのかと。
聞法会などで、私が生きる上で本当に支えられている「土台」は、「前提」などなくてもいい、いのちの輝きの世界なのだとお聞きしています。
それを聞き、共に語り、念仏申すことで阿弥陀様に向かっているようでいても、実際のところは浄土を土台だとは見ることもできず、健康や地位、名誉、経済、経験、知識、能力など前提付きの世界観に価値を見出し、土台にしようとしていたようです。
このように、聞いてもどうにもならん私なのは確かですが、それが阿弥陀様の救いの証拠であり、自分が支えられている土台であると気付かされた途端に、今度はまた仏法を聞かずにおれなくなる。
そんな矛盾を抱えた私であると考えさせられました。