10月 8th, 2019 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »
身は本願の中にある。
心が妄念妄想している。 安田理深
「寺離れ」「宗教離れ」「仏法離れ」という言葉をよく耳にするようになり、「これからどうするのか」とよく言われるようになりました。でも、お寺や仏法の未来が危ぶまれたのは、何も今に始まった事ではないのではないかと思います。
ちなみに今回、仏法やその聞法道場(お寺)が存続するかどうかを問題とし、住職家族の生活問題や寺院そのものの運営方法とは分けて考えます。
先ず、私たちは本能的にエゴイスト(自己中心主義・利己主義)であって、それでも他者との関係を支え、社会に適合するようにしているのは道徳心や理性であると考えます。
またお寺というのは、その縁ある他者と共に仏様の教えを聴聞し、お念仏に出遇い、自分が人間らしく、何を大切にしてどちらを向いて生き、いかに来たるべき死を迎えるのかを考える道場であると思います。
阿弥陀さんの教えを通してエゴイスティックな自分を知らされ、その知らせてくださるはたらきによって文字通り人の間を生きて死んでいく「人間」となっていく。そういう歩みである様に思います。
なので、本質的には仏法というのは私のエゴと相反するものであるとも言えるのだと思います。
ということは、「寺離れ」「宗教離れ」「仏法離れ」というのは、ごく自然なことであると思います。
今までもお寺参りは嫌だという人は多かったでしょうし、今後もある程度おられると思います。
基本的に私の都合に合うものではないので、入り口としては「仕方なく参る」とか「仕方なく法事を勤める」という風になりがちです。
しかしその教えを聞く中ではたらき(光)に触れ、自身のエゴイズムの影を知らされたならば、それ以降はどの様な生き方になっても、もう看過することは難しくなると思います。気になるのです。
しかしもちろん、お寺の維持管理の問題や、存在理由が見失われたりすれば、いつでも「お寺」は変化、または消滅の危機に晒されるでしょう。
私の場合は周囲の方々にご法事やご法話を頼まれる事で、背中を押される様にして仏様の教えや聖人の歩みを聴聞し始めました。そして、いつの間にか仏法に触れて生きたいと願い、同時に聞いた教えを共有したいと思うようになりました。
つまり私を歩ませるのは、私の意思ではなく他者(僧伽)であり、仏様の教え(智慧)です。
なので私が私の思いによって見失う(離れる)事はあっても、仏法が無くなることは決してありません。
「仏法」は「はたらき」です。
私の心の状態や生活状況がどうあれ、今現在も世界は本願のはたらきに満ちているのだと思います。
そして、私はその事を頼りに歩みを進める他ないのだと思います。
8月 20th, 2019 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »
「これまでがこれからを決める」のではない。
「これからがこれまでを決める」のだ。藤代聰麿
関西では今月がお盆の季節です。
この時期に合わせて、東本願寺出版から「お盆」という小冊子が出ています。
その中で大谷大学助教の光川眞翔(みつかわまこと)さんが、金子大榮(かねこだいえい)氏の著書を引用して、次の様な文章を書いておられました。
「『死んでいく人は、なにか滅びざるものを残していく。親が死んでいくときには滅びないものを子供の胸へ残していく。そういうことがある。そういうところに亡き人を拝むというこころがあるのでありまして、みな置いていったものは不滅なるものである。(金子大榮著『大無量寿経総説』春秋社)』
亡き人は私の胸に〈滅びざるもの〉を残していく。どうしても胸から消えないものを置いていくのだという。この〈滅びざるもの〉は無形の形見として、私の生涯の中で活き続けていくものなのだろう。思い出も面影も、言葉にできない悲しみも、亡き人へ懐くものは形を持たない。しかし、それらは私を仏前にみちびき、手を合わさせる。胸に残されたものは合掌という形にかわっていく。」
私も多くの方をお見送りして参りました。
その誰もが何かしらを残してくださいました。
縁が近ければ近いほど影響は大きいものです。
それでも日常の慌ただしさの中で記憶が薄れるような事はあります。しかし、私の胸に残して逝かれたものは〈滅びざるもの〉です。
いくら年月が経とうとも、お盆やご法事など、あらゆるご縁で私を仏前に導き、問いかけてくださいます。
誰しも気が付いたら生まれていて、どこから来てどこに行くのかもわからず、どう生きるべきなのかもわからないけれど走らざるを得ないのが人生です。
そんな中、自分の思い通りになる人生がいい人生だと根拠無く思い込み、理想を求めて慌ただしく動き回り、知らず識らず歳をとり、思いに反して病になり、望まぬ死を迎えるのが私達です。
空過する人生とは、やる事もなく過ぎ去る人生というよりも、やる事が多く忙しい人生をいうのだそうです。
そんなお寺参りどころではない日常の中でも、一旦立ち止まってお念仏の教えに出遇い、生まれた意義と生きる喜びを見出して欲しいという先達の切なる願いがあらゆる仏事として、あるいは聞法の道場としてお寺が伝承されて来たのではないでしょうか。
「これからが これまでを 決める」のです。
30 日に1回でも、300 日に1回でも無意味ではないと思います。
まだの方はこれから。そうでない方はこれからも。
仏前でお念仏申し、共に教えに人生を確かめ合う生活を始めませんか。
7月 16th, 2019 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »
仏説は仏弟子によって証される 安田理深
昨年あたりから別院で法座があると、時々教務所やご講師のお宅に無記名で投書が届いているようです。
内容は主に「勉強し直せ」「話す資格がない」「人選考えろ」等です。
無記名という事は後ろめたさがあるのでしょうか。
ただ、行動に移す事は稀ですが、似たような思いは誰でも抱くのかもしれないと思いました。
私も「この先生は聞きやすい」「この先生はお念仏のお話がなかった」と一喜一憂します。そして、自分にとって聞きやすい先生とそうでない先生を分けるのです。
もちろん、話す側の技術や経験など色んな要因もあるのでしょうが、それよりも自分の納得(思い)を中心にして聞いているのだと先輩に教わりました。
人生経験や聞法経験を重ねると、教えられる者から教える者へと勝手にのぼせ上がり、相手の話をきちんと受け止めて考えようとする前に裁く事があるように思うのです。
先日、友人が大学生の頃に「思枠(おもわく)」という言葉を先生に教えてもらったと聞かせてくれました。
私の思いという枠を通して物事を見ている以上、枠の中におさまらない物は全て否定するか、あるいは見落とし、聞きこぼしてしまうのでしょう。
つまり、教えも自分にとって心地良いその「枠」におさめて聞こうとするのです。
人生経験と同じく、仏法に触れた人間の問題は、自分の思いや経験に則って物事の真実を見出そうとしてしまうことにあるように思います。
それは、目の前の事実や相手の話から「教え」を聞き出せなくなるという問題を孕んでいます。そしてついには、抱いた違和感の方を確かだと信じ、対話することなく一方的に失望するのです。
藤場俊基師は「仏弟子であるという事は、自分自身の主観よりも仏の教えをより確かな物であると選び取るという事である」とおっしゃいます。
つまり私の思いに真実を見出そうとする姿勢は、自分の主観をより確かだと選ぶ姿勢であり、悲しい事に仏智疑惑そのものであると教えられます。
私の思いと合致する「教え」ではなく、私の悲しい有様を知らせてくださる「教え」なのです。
私の身の上に聞いていく事はあっても、誰かが教えとしていただかれた事を裁くような智慧を持ち合わせているわけではありません。
どこまでも共に聞き、共に語り合う事を通して、本当に願うべき事、歩むべき方向を教えられ続ける者でありたいと願います。