2019年8月

「これまでがこれからを決める」のではない。

「これからがこれまでを決める」のだ。藤代聰麿

 

関西では今月がお盆の季節です。

この時期に合わせて、東本願寺出版から「お盆」という小冊子が出ています。

その中で大谷大学助教の光川眞翔(みつかわまこと)さんが、金子大榮(かねこだいえい)氏の著書を引用して、次の様な文章を書いておられました。

 

「『死んでいく人は、なにか滅びざるものを残していく。親が死んでいくときには滅びないものを子供の胸へ残していく。そういうことがある。そういうところに亡き人を拝むというこころがあるのでありまして、みな置いていったものは不滅なるものである。(金子大榮著『大無量寿経総説』春秋社)』

 

亡き人は私の胸に〈滅びざるもの〉を残していく。どうしても胸から消えないものを置いていくのだという。この〈滅びざるもの〉は無形の形見として、私の生涯の中で活き続けていくものなのだろう。思い出も面影も、言葉にできない悲しみも、亡き人へ懐くものは形を持たない。しかし、それらは私を仏前にみちびき、手を合わさせる。胸に残されたものは合掌という形にかわっていく。」

 

私も多くの方をお見送りして参りました。

その誰もが何かしらを残してくださいました。

縁が近ければ近いほど影響は大きいものです。

 

それでも日常の慌ただしさの中で記憶が薄れるような事はあります。しかし、私の胸に残して逝かれたものは〈滅びざるもの〉です。

いくら年月が経とうとも、お盆やご法事など、あらゆるご縁で私を仏前に導き、問いかけてくださいます。

 

誰しも気が付いたら生まれていて、どこから来てどこに行くのかもわからず、どう生きるべきなのかもわからないけれど走らざるを得ないのが人生です。

 

そんな中、自分の思い通りになる人生がいい人生だと根拠無く思い込み、理想を求めて慌ただしく動き回り、知らず識らず歳をとり、思いに反して病になり、望まぬ死を迎えるのが私達です。

 

空過する人生とは、やる事もなく過ぎ去る人生というよりも、やる事が多く忙しい人生をいうのだそうです。

そんなお寺参りどころではない日常の中でも、一旦立ち止まってお念仏の教えに出遇い、生まれた意義と生きる喜びを見出して欲しいという先達の切なる願いがあらゆる仏事として、あるいは聞法の道場としてお寺が伝承されて来たのではないでしょうか。

 

「これからが これまでを 決める」のです。

30 日に1回でも、300 日に1回でも無意味ではないと思います。

まだの方はこれから。そうでない方はこれからも。

仏前でお念仏申し、共に教えに人生を確かめ合う生活を始めませんか。

This entry was posted on 火曜日, 8月 20th, 2019 at 14:35 and is filed under コトバ, 徒爾綴. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. You can skip to the end and leave a response. Pinging is currently not allowed.

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