コトバ

2018年10月 / 報恩講・秋季永代経のご案内

10月 22nd, 2018 Posted in コトバ, 徒爾綴, 法要案内 | no comment »

人生には 三つの坂がある のぼり坂 くだり坂 そして まさか

 

急性腰痛症になりました。

初期症状は軽い違和感を覚える程度で、だんだんと車の乗降が辛くなり、次第に何をしていても鈍痛が出るようになりました。

整体、整形外科、内科も受診しましたが原因不明。

心因性、つまりストレスじゃないかとか言われることもあり、対処に困っておりました。

ついには安静にしても堪え難い激痛が走り救急車を呼んでほしいとも思いましたが、何とか歯を食いしばりながら最寄りの病院まで送ってもらいました。

しかしやはり、触診・尿検査・採血でも原因不明。

1番強い鎮痛剤を投与していただいても完全に痛みが取れる事はありませんでした。

しかし翌日、痛みが少し和らいできた事もあり大きな病院での診察でレントゲン撮影もしましたが、原因不明。

さらに数日後MRIの撮影をしましたら、ようやくヘルニアであったと判明しました。

 

思いもよらない形であらゆる予定をキャンセルする事になり、多くの方にご迷惑やご心配をおかけする事になってしまいました。

そんな自分では何もできない、お願いしてお任せする以外ない状態になり、色々と考えさせられました。

 

安田理深氏は、「忙しいということは、怠けている証拠だ」とおっしゃいます。

 

これから年末までは、お寺でもご門徒宅でも法要が多い時節です。

この時期は一番体調管理に気を使います。しかし、その忙しさの中で立ち止まって色んな事ときちんと向き合う時間まで無くしてしまっていたのかもしれません。

 

「なくす」は漢字で書くと無くすとか亡くすとかがあります。

無くすは物を失えるですが、亡くすは人や動物の命がなくなる様子を表現しています。

 

忙しいのは心を亡くすと書くと言われますが、実は亡くしているのは私自身なのかも知れません。

 

私を亡くした状態とは、「これでよし」「私は間違っていない」と我を忘れた状態であり、欠点や迷いを忘れた姿です。

そういう時は、頑張っている自分や人の粗ばかりが見えるのです。

 

そんな時は道を教えてやるとは思っても、自分が道を知らされなければならない存在だとは考えません。

つまり、その人生に求道はないのでしょう。

 

「空過」する人生とは、怠けている感覚ではないと教えてもらいました。

「忙しい」と気忙しく予定に追われ、今は他の事を考える余裕もない状態で、そんな日常を過ごし続け、最終的に大切な事を何も知らず、あらゆるものを手放してから「わしの人生は何やったんやろか」と愕然とする姿を言うのだそうです。

つまり、後から空過した事に気が付くのですね。

もし気忙しさを感じているのなら、今まさに空過しているのかもしれません。

 

この度、日常の気忙しさから無理矢理にでも離された事で「まさか自分が」と思った私は、忙しいと言いつつ大切な事と向き合う時間を疎かにしてきた、怠っていたのだと教えられます。

 

ご法事やご法要というのは掃除から荘厳、あらゆる依頼や案内まで何かと支度が大変です。しかもその時間(勤行・聞法)は日頃とは時間の流れが違います。

忙しい中でも手を止めて、足を止めて教えに我が身を知らされる、追われる日常(自分の都合)から一旦離れてみる、とても大切な時間であると言えるのではないかと思います。

来月11月10日(土)、11日(日)は報恩講です。

共にお念仏申し、それぞれの立場で教えを聴聞し、自分自身を回復する時間を共有しましょう。

 

報恩講

◎11月10日(土)

13時30分 逮夜

御俗姓 大阪 光照寺 日野廣宣 師

ご法話 大阪 法泉寺 永井貴宗 師 2席

18時   初夜兼お内仏御取越し

御伝鈔 住職

ご法話 大阪 法泉寺 永井貴宗 師 1席

◎11月12日(日)

7時    晨朝

朝御講(御斎をみんなでいただきます)

10時    結願日中

ご法話 大阪 法泉寺 永井貴宗 師 1席

 

秋季永代経

13時30分

ご法話 大阪 法泉寺 永井貴宗 師 1席

以 上

 

2018年9月

9月 23rd, 2018 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

各自相互に自覚する外に和合の道はない

曽我量深

 

最近は、パワハラやセクハラなどの報道がメディアを賑わしています。
ちょっと食傷気味です。笑

実はこの〇〇ハラという言葉、パッと聞いただけでは分らないようなものも含めると、30〜40種類もあるのだそうです。
例えばヌーハラ(ヌードルハラスメント)は麺類を啜る時の音が不快感を与えるので慎むべきであるとか、エアハラ(エアーハラスメント)は空気を読めということです。また、カシハラ(お菓子ハラスメント)は特定の人にだけあげなかったり、旅行のお土産を強制したりする事だそうです。

どうも何にでも「ハラ」をつけすぎているような気がするのは私だけなのでしょうか。

事情は様々ですが、近頃は間違いを犯してしまった人を寄ってたかって非難することで、公の場で罪を認めて謝罪する事を求めているように見えます。そしてそれについて飽きるまで、または次の標的が見つかるまで噂をするような報道が多いように感じています。
しかも、その後については報道しない事がほとんどであるという、ある意味公開処刑です。

ハラスメントとは嫌がらせ、いじめ、個人の尊厳を傷つけたり、脅威を与える行為を指します。

自らを絶対的な善とした時、人は暴走を始めてしまう事があるという良い例ではないでしょうか。
人は善や正義の側に立って他者を非難している間は、自らの見直すべき箇所を見失いがちです。そうして正しさが凶器となり、誰かを窮地に追い込んで傷つけても平気でいられるのです。

もちろん話し合う事はとても大切です。しかし、度が過ぎるとハラスメントと変わらない状況になり、間違いを犯してしまった人の尊厳や人権はいとも簡単に踏みにじられてしまいます。

ジャーナリストの故・むのたけじさんは「他に服従を強制するものは、そのもの自体が必ずなにものかの奴隷である」とおっしゃいます。

ならば私はすでに「正しさ」や「世間」「空気」の奴隷であると言ってもいいのかもしれません。
そして私が思う「正しい世間」や「空気」はどこか偏りが強いに違いないのだろうと思います。
なぜなら、誰かが排除されたり悲しんだりする事があるような正しさは、本当の正しさだとは言えないと教えられたからです。

必ず自分に義を立てる私は、実は誰の事も正確には裁けないのです。

各自相互に仏法に我が身を知らされる事で、やっとその過ちに気付く事があるだけです。
それはつまり私は今後も他者と共に、繰り返し知らされ続ける必要があるという事に違いないのでしょう。

2018年8月

8月 19th, 2018 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

はてさて困ったことには
知っていることは何の役にも立たず

肝心のことは何も知らない

ゲーテ『ファウスト』より

 

寺報に書くべき内容が思い付かず悩んでいました。
(ここに書いている事は寺報としてご縁のある方にお配りしています)
しかし、「書くべき内容が無い」という事は、「書くべき」事があると思っているという事です。
多くの方の感想に一喜一憂するうちに、寺報に対して「こうあるべき」という思い込みが出来ているように思いました。
本当は何でもいいはずなんです。この文章のタイトルが「徒爾綴」(いたずらなさま。むだなさま)なんですから。

そういう意味では、もしかしたら自分のやってきた事全てが思い込みではなかったかと思わないでもありません。

今までのあらゆる仕事、あらゆる用事が「これで良し」「こうあるべき」と自分がイメージし、納得できる形での行為でしかなかったのかもしれません。決まりのないところに「前例」という決まり、スタンダードを作り続けているように思います。

その思い込みがたまたま周りの方々と合致すれば褒められやり甲斐を感じ、合致しなければ思うようにならない虚しさを感じる。ただそれの繰り返しであったのかもしれません。

そうして40年以上、色んなことをして生きてきましたが、「肝心のことは何も知らない」のです。

いつも新しい執着、自分の納得を探していつまでも迷っているのです。

教えを聞いても納得できれば有難がり、納得できなければそっぽを向く。
人間関係も仕事も何もかもその調子です。
自分以外の確かなものを求めていても「自分の納得」が判断基準なら、それは同じ事の繰り返し。到達点はいつも出発点なのです。

「空過(くうか)」という言葉があります。
「ボーっと無駄に過ごすこと」かと思っておりましたが、先生には「空過とは気忙しくやるべきことに追われている状態のことで、その時が過ぎてから空過したと気が付くのだ」と教えていただきました。

つまり求めるべき肝心な事を知らないまま、いつも自分の納得だけを探し求めて、常に不満や不安を抱えながら忙しい忙しいと同じ所をグルグル迷う、そんな人生を「空過」というのでしょう。
どうしたらいいのかわからない者がその場その場で納得する理由や根拠なんて、掴んだ途端に色褪せるものです。

人生において輝いて見える魔法のことば「意義・価値」もそうなのかもしれません。

「私」から見出す「意味・意義・価値」は、結局私の考えそのものなので、状況や嗜好が変わればすぐに吹き飛ぶようなものです。
そこに確かな救いなどないのでしょう。
繰り返し教えを聞き、本当に願うべき事、求めるべき方向を賜りながら、私の人生の現在地を確かめつつ歩む他ないのだと思います。