7月 19th, 2018 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »
「おかげさま」と言える人生に孤独はない
「おかげさま」この言葉はよく口にする言葉ではありますが、おそらく日常では挨拶のように口をついて出ている言葉ではないでしょうか。
先月9日、「おかげさま」で前住職・瑞華院釋尼惠香(宮尾惠美子)の13回忌をお勤めさせていただきました。
ご門徒をはじめ多くの方がお参りくださって、素晴らしいご法事をお勤めしていただけたと感謝しております。
よくご法事をお勤めして「やれやれ」と思ってはいけないと言うお話を聞きます。
ところがやはり「自分の苦労や努力」を誇っているかのように「やれやれ」と思ってしまいました。一体誰のための仏事であったのでしょうか。
実は今回のご法事直前はいつも以上に慌ただしいものでした。途中親戚やご門徒のお葬儀など色々突発的な事もあって、どうにも考えることやることが多かったのです。
夫婦一緒に作業をしている余裕もありませんでしたので、時間に追われるように、黙々とそれぞれができることをやっていました。
当日を迎えても、お参りの方や出仕の僧侶方が気になります。また、次第やお荘厳に不備はないか。
お下がりは、お料理は、お酒は、挨拶は。
まだまだ心は落ち着きません。
そして御斎(おとき)の席でお酒もいただき、ようやく少し落ち着いてきた頃、ふと気付かされたことがありました。
あれやこれやと用意をして大変ではあったものの、お参りの方がおられなかったら、このご法事は成立しなかったわけです。お導師や法中さん、外陣方のみなさんがご出仕くださらなくても、親類や家族の協力がなくても成り立たなかったのです。もちろん料理屋さんなどもそうです。
どなたが欠けても絶対にこのご法事は今回のように勤まることはなかったのです。
心のどこかで自分一人の大変さ、自分のやったことを手柄にして、「やれやれ」などと口をついて出る私です。
今回のご法事は、実は一人では何もできないでいる私が、「おかげさま」のど真ん中で自分の役割を勤めさせていただいただけであったと気付かされる機縁でもありました。
普段の「挨拶」では感じきる事ができていなかった「おかげさま」を、改めて実感させていただける時間でした。
本当にありがとうございました。
6月 4th, 2018 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »
無明とは確信の感覚である。藤場 俊基 師
先日、日本大学アメリカンフットボール部の選手が危険なプレイをして、相手チームの選手に怪我をさせてしまった件が世間を騒がせています。
そんな中、怪我をさせてしまった選手が自らの非を認め、悔い、改めて関係者と相手選手に対して謝罪と事の真相を伝えようと会見を開きました。
日大選手が行ったことはとても悪質です。
ところが、会見での姿勢と誠実な答弁に共感したという方が大勢いらっしゃいました。
それはきっと、この件を日大だけの問題でなく、日本の縮図であるとご覧になったからではないでしょうか。
人は組織(周囲)から追い込まれると、自分の思いに蓋をしてしまう事があると思います。
そうして組織とそれに従う自分を肯定しつつ周りに合わせて、何事もなかった平穏な日常であるかのように振る舞おうとします。
ところが実際は自分を誤魔化している状態なので、上手く思考は定まらず、振り返れば何故そうなったのかも分からない様な失敗や間違い、軋轢が生じてしまう事があるのでしょう。
自分の生きる組織や環境によって、大なり小なり正しさの尺度が狂う事は誰にでも起こりうる事で、別に珍しい話ではないと思います。
とは言え、どの様な場所であっても絶対的な立場であったり、いつも周囲に忖度を迫るような圧力がある状況というのは大変危険だと思います。
なぜなら、心に沸き起こってきた不安や迷いと向き合わせずに、蓋をさせてしまう事があるからです。
以前先輩から本願とは輪ゴムのようなものだと教えていただきました。
輪ゴム本来の形を自力で周囲に合わせて引っ張り形を変えようとしても、手を離せば元に戻ります。
その輪ゴムの様に常に元の姿に戻ろうとするのが本願のはたらきであって、一生懸命頑張っているはずなのに何だか空しく満たされず不安なのは、私の根底から本願が、いのちの叫びが突いているのであって、元のいのちの形に戻ろうとするのだというお話でした。
何事も考える必要を感じないほどに上手く進み、日常の細事に流される中で、一旦立ち止まって確かめるという事がなくなったら要注意かもしれませんね。
もしかしたら、圧力をかける側か、受ける側になっているのかもしれません。
間違いないはずだと根拠のない確信を抱きつつ道を踏み外す私の有様を「無明」であると照らし出す確かな教え(道しるべ)によって、ようやく目印の無い人生に於いて、向かうべき方向を賜るのだと思います。
時に揺れ、時に迷いつつもその道しるべに導かれながら生きる道を「仏道」と呼ばれたのではないでしょうか。
多くの先達も歩まれた道です。
日常は忖度の連続です。
しかし、そんな中でも道しるべをたよりとして、自ら考え、勇気をもってこの道を往けと背中を押されているように感じています。
お念仏申しつつ、共にこの娑婆の縁尽きるまで参りましょう。
5月 19th, 2018 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »
人間の愚かさは
何事に対しても答えを持っているということです。 宮城顗
ずいぶん前に、大阪市生野区・光德寺ご住職の高橋法信師に、聞くことの難しさと大切さをお伝えくださっているお言葉だと教えていただいたのが、この「今月のことば」です。
昨年にも同じような言葉を掲示いたしましたが、実は最近つくづく人は聞くという事が苦手な存在なのだと思うような経験をしました。
それは先日、追突事故に遭ったことがきっかけでした。
すぐに友人の勧める病院に行ってみましたが、なぜか診察もそこそこに、症状も決められてしまいました。
そこで転院しましたら、今度は丁寧に診察していただく事ができて、安心して通院しています。
宗教家・法律家・建築家・農家・政治家・医師・教師・整備士・鑑定士、世の中にはあらゆる専門家が存在し、あげればキリがないほどです。
なぜ専門家と言われるかといえば、専門外の方がいらっしゃるからですね。
でも、一度専門家になると自分の視点が専門的であるとは自覚しづらいものです。
誰しも自分の知識や考えは特殊ではなく、正しく常識的であると思い込む傾向があります。
その思い込みに気付けないと、違う立場や異なる意見を聞く事に耐えられなくなります。
すると忽ちその実力は思うように発揮されなくなり、否定と持論の押し付けに終始してしまいます。
これは私自身にも言える事で、自分の思いを脇へ置いて、相談者からの不安・要望をキチンと聞き、適切にお応えできているかと言えば、甚だ怪しいものです。
特に儀式などの専門的な話は、よくわからないと仰る方からすると、どのように相談したらいいのかもわからないという話をよく耳にします。
ですから専門的な経験や知識も大切ですが、まずは相談者と問題意識を共有しようとする事が大切なのではないかと思うのです。
しかし、時に私が相談者になる事もあります。
その時、相談者にも問題があると思い至りました。
実は相談者もまた、自分に納得のいく答えでないと拒絶する事があります。
つまり、相談しつつも既に期待する答えを握っている事があるのです。
お互い、本当に聞くという事が苦手なのです。
お互い、答えを握る「自分」の専門家なのです。
どちらにも偏らない教えに知らされないと、私の歪んだ本当の姿には気付けないのでしょうね。