コトバ

2017年7月

7月 21st, 2017 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

いま光りがとどいたのではない 光りに遇わなかっただけだ

   吉岡妙子

 

相撲町・浄願寺の澤面宣了氏が「循環彷徨(じゅんかんほうこう)」という言葉を教えてくださいました。

 

人が何の目印も無い、広い砂漠のような所で真直ぐに歩くという実験があるのだそうです。

 

その実験でわかるのは、自分では真直ぐ歩いているつもりでも200mほど進むのに、5mは横にズレて行くのだそうです。

進めば進むほどズレるので、最後は元のところに戻ってくる。

つまり彷徨い循環する、だから循環彷徨というのだそうです。

 

しかもズレる方向が面白いんですね。

無意識のうちに、必ず利き手の方にズレて行くのだそうです。

右利きなら右に、左利きなら左に、悲しいかな得手にズレる。

 

得意なこと、正しいと思っていることが、なぜか却って迷いを深めるんですね。

一生懸命頑張って生きて、元のところに戻る。

「一体何やってんやろか、ワシの人生。」

なんて、こんな空しいことはないですよ、とお話くださいました。

 

みんな幸せになりたいと思って、一生懸命頑張って生きているんです。

 

でも一生懸命であればあるほど、何かがおかしいと感じると、アレがおかしいコレがおかしいと問題を他者に見出そうとします。

そうやって、自分の思いを中心にして悩むことで、却って肝心のズレている自分には全く気付かないんですね。

 

気付かないまま「大丈夫や、間違いないはずや」と、大切な人をも道連れに、私の思う正しさに邁進し、結局循環する悲しい生き方をしてしまいます。

 

その迷いを何とか抜けたいという切なる願いに応えるべく、一筋の光を灯してくださったのが釈尊であり、同じ悩みに立って、その光に出遇い続けてくださったのが親鸞聖人や我々のご先祖など、多くの先達だったのではないでしょうか。

 

自分の思いを出る事のない私は、必ず得手に、自分の思いにズレて行くのです。

 

そんな私のために、この目印の無い人生においてナンマンダブツの光が、はるか古(いにしえ)から私にまで教えとして届けられ、生きる方向が指し示し続けられていたのではないでしょうか。

 

日常の雑事の中で、すぐにその光を隅に追いやり、自分勝手な思いに埋もれて彷徨う私です。

 

いま共に念仏して聴聞し、繰り返し繰り返し出遇いなおし続けながら、この悲しい循環から解放され続ける道を歩めと呼びかけられているように思います。

2017年6月

6月 18th, 2017 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

私が生きられる土台は あくまで健康を前提とするものでしかなかった

 

先日、永代経でのご法話のご縁をいただいて伺った、福井県にあるお寺の掲示板で出遇った言葉です。

 

とてもドキッとさせられたので、帰りにもう一度確認して、それ以降何度も読み返しているのですが、全くその通りでしかない自分に気付かされます。

 

予定や約束。

期待する未来や夢見る将来。

 

すべて健康であることを前提としてしか考えていませんでした。もし健康で無くなったら、全部予定変更を余儀なくされることばかりです。

 

しかし、そんなことはすっかり忘れて、いつも私は「今・ココ」に満足できず、どうなりたいのかも曖昧なまま、「いつか・どこかで」何とかならんかと思って、将来への妄想を抱きながら、何となく方向転換を繰り返しながら生きてきました。

 

往き先もわからないままに、走らざるを得ないのが人生です。

そんな中、手当たり次第に「あれが大事、これも大事」と財産のみならず知識や経験、輝いて見えるもの全てを身の回りに揃えよう、蓄えようと、アレコレ頑張ってきたように思います。

 

そして、そうすることが当たり前で、人生では大切なことであると思い、多少の困難や他者との衝突は仕方がないと思ってきたんです。

 

そうして今まで生きてきましたが、私が世間の価値観というものさしで、これが大事、輝いていると思ってきたものは、この身が終わるときには全く間に合いません。それどころか、全て手放さなくてはならなくなるのです。

 

誇らしげに並べ立てたものを失うと気付いた時、共通の価値観を抱いた者同士でしか意味が見出せないものを求めていたと、私自身の本当の狭さや暗さに気付かされます。

 

やってきたことが無駄だとは思いませんが、それらが私の全て、つまり私の人生の「土台や支え」だとするならば、最期はとてつもない虚無感に襲われるのではないかと思います。

一体、何を頼りとしてきたのかと。

 

聞法会などで、私が生きる上で本当に支えられている「土台」は、「前提」などなくてもいい、いのちの輝きの世界なのだとお聞きしています。

 

それを聞き、共に語り、念仏申すことで阿弥陀様に向かっているようでいても、実際のところは浄土を土台だとは見ることもできず、健康や地位、名誉、経済、経験、知識、能力など前提付きの世界観に価値を見出し、土台にしようとしていたようです。

 

このように、聞いてもどうにもならん私なのは確かですが、それが阿弥陀様の救いの証拠であり、自分が支えられている土台であると気付かされた途端に、今度はまた仏法を聞かずにおれなくなる。

そんな矛盾を抱えた私であると考えさせられました。

2017年5月

5月 17th, 2017 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

よく聞いて しっかりする身に なろうとするのが危うい
                     上山城守『如是我聞』より

 

宗教者・警察官・教育者など高潔であることを求められる「聖職者」と呼ばれる職業の人はある程度きちんとしているイメージがあるのだそうです。

 

そして、その職業や立場にいる人の多数が、何となくその(異なる立場の方が抱く)イメージをある程度守ろうとします。

要は格好つけるんです。笑

まぁ、そうでなくてもええ風に見られたいですよね。誰しも。

 

上手くいっている間はいいのですが、ひとつ歯車がくるうと、途端に息苦しくなります。理想と現実の間で、何でもない日常がしんどくなるんです。

 

そんな時、この今月の言葉が胸に刺さります。

 

今の自分はダメだから、自分が努力して積み重ねて自分を作り上げて、何者かになって、それで自分自身を受け止め、人にも認めてもらおうとするんですね。仏法聴聞まで積み重ねに利用して。

 

それでも、阿弥陀さんはこんな自分はダメだとはおっしゃらず、そのまま来いとおっしゃいます。

 

努力できる人はできるまま。できない人もできないまま。そのままです。なんまんだぶつの救いに違いはありません。

 

このままではあかんというのは私の方です。

あの人はまだあかんというのも私の方です。

 

阿弥陀さんは摂取不捨ですが、私は取捨選択しているんです。人も自分も状況も。

 

そうして、人生を思い通りにしよう、自分の理想像を演じようというのです。しかも、そうすることこそが正義であると思うんですよね。真面目に。

 

頑張ることが間違いだとは思いませんが、正しさゆえに見誤っても気づかない危うさがあります。

その証拠に行き詰まると、人や環境のせいにして、自分の都合を汲み取らない周りを責めるんです。

 

自分の思いと違う事に腹を立てて傷つく。その気持ちはわかりますが、それってお門違いですよね。

行き詰まっているのは他でもない自分の理想像、自分の思考なんですから。問うべきは自分です。

 

明石家さんまさんは『俺は絶対落ち込まないのよ。落ち込む人っていうのは、自分のことを過大評価しすぎやねん。』とおっしゃいます。

 

自分の努力、苦労、経験、すべて手柄にして見返りを求める私の姿こそ、過大評価そのものですね。

 

ありのままになれない私が、ありのままを聞かせていただく。ただそれだけなのですが、自分の手柄を手放せない私の思いこそが、人生の行先を阻み、危うくするのだと言われているように思います。