コトバ

2016年10月 / 報恩講・秋季永代経のご案内

10月 9th, 2016 Posted in コトバ, 法要案内 | no comment »

私たちの相手を想う「愛」の中味も

よくよく考えてみますと 自己愛(エゴ)そのものであったり

私たちの仏や神を信じるという「信心」の中味も

よくよく考えてみますと 我欲(エゴ)そのものであったりするのです

       藤田徹文

とあるご門徒さん宅で、メダカを飼っておられました。

お話によると、産卵が済むと、親とは離さないといけないのだそうです。

なんと、親が卵を食べてしまうことがあるのだとか。

 

そういえば、保育園で飼っていたハムスターが共食いをしていたことを思い出しました。

人だかりがあり、行ってみると一匹はお腹の部分がえぐられ、もう一匹は回し車でカラカラと運動をしているという、幼い頃の強烈な記憶です。

 

ふと、いのちというのは何ともエゴイスティックな一面があるのだと思いました。

 

また、ある母の日。先輩がお連れ合いに日頃の感謝の気持ちを伝え、これからも元気でいて欲しいと労いの言葉をおかけになったそうです。

ところが、お連れ合いからは、自分が元気でいないといけないのは、あなたが大変だからではないかと返され、言葉につまったそうです。

 

私たちが相手に望むあり方は、どんなに綺麗な言葉で飾っても、奥底では相手が自分の望む在り方で存在してほしいというエゴが見え隠れします。

 

どんなに大切な存在でも、その大切な理由は大抵、単に今、私が大切に思うことができているからなのです。

 

現に抱く愛情は本心でも、事と次第によっては大切に思えなくなるかもしれない私の日頃のこころを知る事によって、本当の愛や信心(まことのこころ)とは、一体どういうものなのかと、ようやく聴聞する準備が整うのかもしれません。

 

もうひと月で報恩講です。ぜひ一緒に聴聞し、共に考えさせていただきたいと思います。

 

報恩講

 ◎11月12日(土)

 13時30分 逮夜

 御俗姓 大阪 光照寺 日野廣宣 師

 ご法話 長浜 浄願寺 澤面宣了 師 2席

 18時   初夜兼お内仏御取越し

 御伝鈔 住職

 ご法話 米原 真廣寺 竹中慈祥 師 1席

 ◎11月13日(日)

  7時    晨朝

 朝御講(御斎をみんなでいただきます)

 10時    結願日中

 ご法話 米原 真廣寺 竹中慈祥 師 1席

秋季永代経

 13時30分

 ご法話 米原 真廣寺 竹中慈祥 師 1席

以 上

2016年9月

9月 17th, 2016 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

苦しんでいることは救いではないが、救いの縁となりうる

                               安田理深

ある方と立ち話をしているときに、

「人生で問題の無い時なんてありませんよね」と言われました。

 

何か悩んでおられるのでしょうか。

立ち話でもあるので、深くは訊ねませんでした。

 

でも、その一言がこころに残り、私たちを悩ませ苦しませる「問題」って一体何なんだろうと考えています。

 

私たちは、面倒で厄介なことなど、現状に不便を感じると「問題」だと認識するように思います。

それは人間関係であったり経済や身体的・精神的なことであったり…考えてみますと、確かにその方がおっしゃるように、問題が無くなった時はないように思います。

 

それにしても、たくさんある問題ですが、それはいつからあったのでしょうか。

 

学生の頃、ある先生の決める規則が私には問題に見えたことがあります。

でも、その先生にとっては問題どころか、当たり前のことなのです。

それは、友人によっても意見が分かれました。

どうやら「問題」にはその受け止めに個人差があるようです。

 

だとすれば、そもそも私は本当に問題とすべき事柄と、そうでない事柄とをきちんと区別できているのでしょうか。

 

ふと我が身を振り返ると、もしかしたら「問題」の大半は単に「気に食わない」のが原因なのかもしれないと思いました。

 

あれがいや、これもいや。ああなれば、こうなれば。

思い通りの人生を願う私にとって、この世は問題だらけです。

 

思い通りにならない人生を問題視し、また思い通りになったらなったで新たに問題を見つけ出してしまうんですね。

 

そうやって、今ではないいつか、ココではないどこかで問題が解決して幸せになれるはずだと思い、悩みながらも喜怒哀楽を繰り返し生きて来たんです。

しかし今も尚、今ではないいつか、ココではないどこかで幸せになれるはずだと思って悩んでいます。

 

それはつまり、今の今まで堂々巡りを繰り返して生きてきたことになります。

 

困った顔をして、自分を取り巻く境遇や他者を変えようとしている私ですが、そもそも私は自分で生まれようと考えて生まれたわけではありません。

気付けば今ココに、この身とこの境遇を有するいのちとして落在していたのです。

 

この広い世界に、自分の思考とは無関係にひとつのいのちとして誕生したのです。

 

現に、私の考えでこの心臓を動かす事も止めることもできません。心臓は心臓で脈打ってくれています。身は、いのちを最後まで前向きに生きようとしてくれています。

また、いつ、どのような縁で娑婆を去ることになるのかも、私には考えが及びません。

 

両親の縁、そのまた両親の縁によって生まれ、縁ある方々と共に生き、死して尚、縁ある方々に見送られるのです。

私が好きか嫌いか、都合が良いか悪いか、損得勝ち負け上下は関係ありません。

 

そういう身を生きているにも関わらず、他者や状況を変えることで、人生を思い通りにしようとして苦しみ悩み、問題視していたのではなかったのでしょうか。

この身、自分ひとりですら、思い通りになったことなどありはしないのに。

 

その私の傲慢な視座が本当の問題なのであって、他者のせいでも、環境のせいでもなかったのです。

そして、自分勝手に狭い、苦しい、生き場が無いと悩むんです。

 

助かるということは、居場所が与えられるということである

                               金子大栄

 

自分の都合を優先して考えて悩む私が、今、既にココに与えられている自分の居場所(境遇・関係性)に気付くところから一歩歩み出すところに、人生がイキイキと開かれてくるように思います。

それは、問題自体はそのままですが、その問題に全てを覆われて振り回されるような閉ざされた人生ではなく、問題を抱えながらも人生が開かれていくような歩みと言えばいいのでしょうか。

 

身を煩わせ、心を悩ませる、「煩悩」そのものが私であり、実はそんな私も許されて居場所を与えられていたのであって、隣る人もまた同じであり、あらゆる存在がそういういのちを生きておられる。

煩悩が私であったと知らされたのは、阿弥陀さんのおかげですが、私が煩悩まみれ、問題だらけでなければ、仏法も聞けなかったと問題が転ずることも、なんまんだぶつの利益(りやく)といえるのではないかと思いました。

 

苦しんでいることは救いではないが、救いの縁となりうる

 

自分勝手に苦しみ悩む自分だからこそ、この教えがあったのでした。

2016年8月

8月 22nd, 2016 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

迷わなくなるのが念仏の信心ではなく、迷わずしては生きていくことはできないと気付かせてくれるのが念仏だと思います。

瓜生崇

この夏、小学校の同窓会がありました。

卒業して28年も経ったんです。

 

40歳。みんないい歳になりました。

お互い色々あったことへの共感であったり、懐かしさであったり、同級生というのは、普段会う友人とはまた違う感覚でした。

地元にも長年居らず、一時は日本にもいなかった自分にとって、初めて会うわけでもなく、長年一緒にいたわけでもない、とても不思議な距離感でした。

 

それぞれに話を聞いていると、平坦な人生なんてないのだと気付かされます。

 

さて、40歳と言えば、孔子の論語に「不惑」という言葉があります。

十有五にして学に志す(志学)、三十にして立ち(而立)、四十にして惑わず(不惑)と続くわけですね。

私で言えば、10代は散々遊んでいました。(笑)

20代で結婚や就職をして、色々と怒られたり教えられたり失敗したり、とにかくたくさん初めての経験をしながら学ぶことをしていたような気がします。もちろん、今でもそうですが…。

そして、30代で少し自信がついてくると有能感に溺れやすくなったり、また認めてもらいたかったりして、今思えば思春期のようなモヤモヤを抱えていたように思います。

 

そして今、数えの40です。不惑。

友人との会話でも「不惑?全然。ますます迷うよなぁ」なんて話をしています。

 

でも、不「惑」であっても不「迷」ではないのですね。

 

惑や迷ということで言えば「迷惑」という言葉があります。

私は常々、迷も惑もまよいではあるが、惑とは迷っている意識すらない状態で、迷とは迷っているということを自覚した状態だと教えてもらっています。

 

振り返れば今まで、だんだんと仕事に慣れ、人生に慣れ、何もかもわかったつもりで錯覚し調子に乗り、他人の欠点ばかりが目につき、人とぶつかり叱られたりしながら、互いに傷つき合いながら過ごしてきました。親切に忠告してくださる人はむしろ分かってくれないのかとがっかりするんです。

 

この、私こそが正しい。私がやってきたことが間違いない。文句を言われる筋合いはないというスタンスが、「惑」なのだそうです。

また、ほんまにそうか。このままでええのか。文句を言われても言い返せない自分であったのではないかと気がついたのが、「迷」なのだそうです。

 

つまり、どちらも迷いなのですが、迷いかたが違うのです。

そのことを藤場俊基先生が次のようにおっしゃっています。

 

『こういう自覚がない迷いと言いますか、確信に満ちた迷い、これが無明という一番やっかいな迷い方です。(中略)こういう状態にある時は、道を求めるなどということは起こるはずがありません。道を教えようとする親切は、よけいなお節介でしかありません。お母さんがついてきて、あれをしろ、これをするなと言えば、むしろ邪魔になるのです。

道を求めるとか、帰り道を探すというのは迷ってしまったと気付いた時から始まることです。求道を始めさせるのは迷いの自覚です。ですから迷いの自覚の中にはすでに「明かり」があるのです。明かりがさしこんでいるからこそ迷っていることが自覚される。それは有明(うみょう)です。確信に満ちている時こそ無明の中にどっぷり浸かっている時です。』 

藤場俊基著 『親鸞の教行信証を読み解くⅠ』 明石書店

 

不惑というのは、ようやく惑うていた自分の浅はかさに気付かされるということなのかもしれませんね。

 

しかし、孔子は四十にして惑わないそうですが、私はどうでしょうか。

しらないウチに惑うてしまうのです。きちんとしたいのですが、しようとすればするほどいつも惑うのです。なんででしょうね。(笑)

いつもそれで「またやってしまった」「ごめんね」と後悔してばかりです。

 

私が聞かせていただいている仏教は、私が確かな存在になって救われる教えではなく、凡夫になって救われていく教えです。

惑う身が迷いの身に帰って救われていく教えです。

 

仏の教えを通して自覚し、惑う眼からの細かな解放の連続が救いの連続であるといってもいいのではないかと思います。

そういう意味では、道を賜るということは幸せなことです。道を賜るということは、方向が定まるということです。

私がきちんとするのではなく、念仏申す身となり、仏道を歩ませてもらう。

 

それ以外はまた惑いの元です。

なぜなら、私が全ての物事を自分の手柄とし、正当化し、惑いの元としてしまう。

そういう存在だからです。迷惑ですね。

そう、まさに迷惑するというのが私の標準仕様なんです。